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<title>徳川将軍家と大奥のブログ</title>
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<description>十五代の将軍家と謎の多い大奥について語るブログです！</description>
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<title>明けましておめでとうございます。</title>
<description> 皆様、明けましておめでとうございます。

昨年は篤姫ブームで多くのアクセスいただきありがとうございます。

本館の「武士の時代」では、今年で満９周年を迎え、10年目に突入します。
長い間、支えていただきありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。

また、昨年末には戦国版ブログも開設しましたので、当ブログともどもよろしくお願いいたします。

★戦国版ブログ
武士の時代戦国ブログ

★本館
 </description>
<content:encoded>
<![CDATA[ <span style="color:#000000">皆様、明けましておめでとうございます。<br>
<br>
昨年は篤姫ブームで多くのアクセスいただきありがとうございます。<br>
<br>
本館の「武士の時代」では、今年で満９周年を迎え、10年目に突入します。<br>
長い間、支えていただきありがとうございます。<br>
今後ともよろしくお願いいたします。<br>
<br>
また、昨年末には戦国版ブログも開設しましたので、当ブログともどもよろしくお願いいたします。<br>
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★戦国版ブログ<br>
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★本館<br>
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<br>
それでは、今年が皆様にとって幸多い一年となりますように！<br></span>
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<dc:subject>その他</dc:subject>
<dc:date>2009-01-01T00:54:14+09:00</dc:date>
<dc:creator>seisyo3</dc:creator>
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<title>西郷の心を動かしたもの　２</title>
<description> 前回記事で、江戸城の開城により、無血に近い形で明治維新という革命が実現したことを書きました。
もちろん、本当の意味での無血革命ではありませんでしたが、世界史的には珍しいほど混乱が少ない形で革命が成し遂げられたのです。


西郷隆盛が江戸城総攻撃を中止したのは、静寛院、天璋院の嘆願書もさることながら、西郷の中で勝という人物を高く評価していた事、勝も西郷に応える度量があった事、その事が大きかったのでは
 </description>
<content:encoded>
<![CDATA[ <span style="color:#000000">前回記事で、<span style="color:#FF0000"><strong>江戸城の開城</strong></span>により、無血に近い形で<span style="color:#FF0000"><strong>明治維新</strong></span>という革命が実現したことを書きました。<BR>
もちろん、本当の意味での無血革命ではありませんでしたが、世界史的には珍しいほど混乱が少ない形で革命が成し遂げられたのです。<BR>
<a href="http://blog-imgs-31.fc2.com/s/e/i/seisyonet/edojyou.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-31.fc2.com/s/e/i/seisyonet/edojyou.jpg" alt="edojyou.jpg" border="0"align="left"vapace="5"hspace="15" /></a>
<br>
<span style="color:#0000FF"><strong>西郷隆盛</strong></span>が江戸城総攻撃を中止したのは、<span style="color:#0000FF"><strong>静寛院</strong></span>、<span style="color:#0000FF"><strong>天璋院</strong></span>の嘆願書もさることながら、西郷の中で勝という人物を高く評価していた事、勝も西郷に応える度量があった事、その事が大きかったのではないかということをご紹介しました。<BR>
<BR>
ただ、西郷が江戸城総攻撃中止という決断に至るには、他にも重大な理由があったのです。<BR>
<br>
幕末の日本では、諸外国が利権を狙って旧幕府側にフランスが、新政府側にはイギリスがついて様々な形で援助を行っていました。<BR>
ところが、新政府側が江戸城総攻撃に備えて、横浜に病院を建ててもらいたいとイギリス側に依頼したところ公使・<span style="color:#0000FF"><strong>パークス</strong></span>は次のとおり答えたと言います。<BR>
<BR>
<strong>「吾々の聞く所に依ると、徳川慶喜は恭順と云うことである。その恭順して居るものに、戦争を仕掛けるとは如何」</strong><BR>
パークスは、内乱がイギリスの権益上、不利に働くことを嫌って江戸城総攻撃に批判的な態度を示したのです。<BR>
<BR>
<span style="color:#0000FF"><strong>勝海舟</strong></span>は、以前からフランスの力を借りて幕政改革を図る幕府首脳に批判的でした。<BR>
パークスの意向を掴んでいた勝は、<BR>
<strong>「西郷さん、外国の侮りを受けないためには、日本人同士が争っている場合ではないじゃないか」</strong>と説得したことでしょう。<BR>
<BR>
また、次のような話も伝わっています。<BR>
<BR>
江戸に向けて進軍する西郷のもとに、<span style="color:#0000FF"><strong>大田垣蓮月</strong></span>という７８歳の尼から和歌がしたためられた短冊が届けられたといいます。
<BR><BR>
<span style="color:#FF0000"><strong>「あだ味方　勝つも負くるも　哀れなり　同じ御国の　人と思へば」</strong></span><BR>
<BR>
西郷は、これに対し丁寧に「ご安心ください」と返事を返したとのことです。<BR>
歴史を左右したのは、意外にもこういったところにあるのかもしれません。<BR>
<BR>
<br>
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</content:encoded>
<dc:subject>その他</dc:subject>
<dc:date>2008-12-31T16:07:12+09:00</dc:date>
<dc:creator>seisyo3</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
</item>
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<title>西郷の心を動かしたもの１</title>
<description> 江戸城の無血開城は、いろんな糸が絡み合い奇跡のように実現した政治劇でした。
その後、東北戦争、箱館戦争と内戦が続き、痛ましい血が流されることになりますが、大きな革命であった割に混乱が少なかったのは、江戸城の無血開城が実現したからなのです。

徳川家康は、大坂の陣によって、前政権者であった豊臣家を完全に葬りました。
政権を奪取するには、前政権をシンボリックに葬るというのが常套であるのです。

明治新
 </description>
<content:encoded>
<![CDATA[ <span style="color:#000000"><span style="color:#FF0000"><strong>江戸城の無血開城</strong></span>は、いろんな糸が絡み合い奇跡のように実現した政治劇でした。<BR>
その後、<span style="color:#FF0000"><strong>東北戦争</strong></span>、<span style="color:#FF0000"><strong>箱館戦争</strong></span>と内戦が続き、痛ましい血が流されることになりますが、大きな革命であった割に混乱が少なかったのは、江戸城の無血開城が実現したからなのです。<BR>
<BR>
徳川家康は、大坂の陣によって、前政権者であった豊臣家を完全に葬りました。<BR>
政権を奪取するには、前政権をシンボリックに葬るというのが常套であるのです。<BR>
<BR>
明治新政府は、江戸城総攻撃を<strong>慶応４（１８６８）年3月15日</strong>と定めて、<span style="color:#0000FF"><strong>静寛院宮</strong></span>（せいかんいんのみや、１４代将軍・家茂の御台所・和宮）の許婚であった<span style="color:#0000FF"><strong>有栖川宮熾仁親王</strong></span>（ありすがわのみや たるひとしんのう）を大総督宮とした東征軍を組織し、江戸城を目指して進軍を始めました。<BR>
<BR>
ところが、旧幕府の全権委任を受けた<span style="color:#0000FF"><strong>勝海舟</strong></span>と東征大総督府参謀の<span style="color:#0000FF"><strong>西郷隆盛</strong></span>の二度に渡る会談によって、江戸城の開城や武器の引渡し、慶喜の水戸での隠居などの条件によって江戸城総攻撃は中止され、ここに家康以来の徳川幕府は終焉を迎えました。<BR>
<BR>
西郷に江戸城総攻撃の中止を決断させたもの、それは何だったのでしょうか。<BR>
<BR>
<span style="color:#FF0000"><strong>ＮＨＫ大河ドラマ「篤姫」</strong></span>では、<span style="color:#0000FF"><strong>天璋院</strong></span>（篤姫）は、まず静寛院宮に朝廷宛の書状を出すことを依頼し、自らも西郷にあてて書状を出しています。書状は、両方とも<span style="color:#0000FF"><strong>慶喜</strong></span>の不始末を詫びるとともに自分の一命をかけて徳川家の存続を願うというものです。<BR>
そして、亡き<span style="color:#0000FF"><strong>島津斉彬</strong></span>の書状を勝海舟に託すことによって、西郷の心を動かしたというストーリーとなっていましたが斉彬の書状の事は、原作者の創作と思われます。<BR>
<BR>
皇女であり内親王である静寛院宮が朝廷に、島津斉彬の養女である天璋院が薩摩隊に向けての真摯な歎願は、恐らくは維新政府側に強いインパクトを与えたでしょう。<BR>
天璋院の書状は有名であるために篤姫の歎願が徳川家を救ったと論じられる場合もありますが、政局を変える決定的な要因となったとは思えません。<BR>
<BR>
実は、幕府の全権が勝海舟であった事も大きかったのではないかと思います。<BR>
西郷と勝の関係は次のようなものです。<BR>
<BR>
10年前の<strong>安政5（1858）年</strong>、勝は<span style="color:#FF0000"><strong>海軍伝習所</strong></span>幹部として咸臨丸に乗って薩摩を訪問しており、その時に西郷の主君・島津斉彬に会っています。<BR>
斉彬は勝の先見性に大いに信頼を寄せて、その後も書状で意見交換するほどでした。<BR>
西郷も勝の名前は知っていたことでしょう。<BR>
<BR>
西郷が始めて勝に会ったのは、<strong>元治元（1864）年</strong>でした。<BR>
西郷は、勝の印象を<span style="color:#0000FF"><strong>大久保一蔵</strong></span>（利通）あての書状に興奮気味に書いています。<BR>
勝に打ち勝つつもりが頭を下げることになったこと、どれほどの知略があるか知れない人物で学問見識は<span style="color:#0000FF"><strong>佐久間象山</strong></span>が抜群だが人物としては佐久間を超えるということ、勝先生にひどく惚れてしまったこと、などが述べられています。<BR>
<BR>
時が経ち、新政府側、旧幕側の代表として会談に臨んだ時に西郷の胸には、どんな思いが去来したでしょうか。<BR>
勝が訴える「外国の侮りを受けないためには、日本人同士が争っている場合ではない」という言葉が重く響いたに違いありません。<BR>
<BR>
西郷が江戸城総攻撃を中止した理由は、英国公使<span style="color:#0000FF"><strong>パークス</strong></span>の意向など他にもありますが、それについては次回に。</span><BR>
<BR>
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<dc:subject>その他</dc:subject>
<dc:date>2008-12-26T14:04:06+09:00</dc:date>
<dc:creator>seisyo3</dc:creator>
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<title>大奥が与えた影響</title>
<description> 久しぶりの記事投稿です。

大奥が幕政に大きな影響を与えたことは、よく指摘されますが具体的にどのような形で表の政治に関与したのか実は良くわかっていません。

本来、大奥というのは、御台所（将軍の正室）や側室や生母、彼女らに仕える女中の生活の場であり、政治を行う場ではありません。
しかしながら大奥は将軍に近侍して仕えるために、大奥の意向を将軍に直接伝えることができること、何より将軍の妻であり母である
 </description>
<content:encoded>
<![CDATA[ <span style="color:#000000">久しぶりの記事投稿です。<BR>
<BR>
大奥が幕政に大きな影響を与えたことは、よく指摘されますが具体的にどのような形で表の政治に関与したのか実は良くわかっていません。<BR>
<BR>
本来、大奥というのは、<strong>御台所（将軍の正室）や側室や生母、彼女らに仕える女中の生活の場</strong>であり、政治を行う場ではありません。<BR>
しかしながら大奥は将軍に近侍して仕えるために、大奥の意向を将軍に直接伝えることができること、何より将軍の妻であり母である人の意向を将軍自身も幕閣も無視しにくいということは容易に想像できます。<BR>
<BR>
江戸時代の武家社会では、<span style="color:#FF0000"><strong>参勤交代</strong></span>のように制度化されたものでも<span style="color:#FF0000"><strong>参勤</strong></span>（江戸に出府）、<span style="color:#FF0000"><strong>交代</strong></span>（国に帰る）の時期をなじみの幕僚に伺いを立てたり、<span style="color:#FF0000"><strong>猟官運動</strong></span>（役職に就くこと）にも様々な伝手で口利きを依頼したりと人的繋がりが不可欠なシステムとなっていました。<BR>
その中で、親戚筋などを頼り、大奥女中にも様々な形で願いなどが持ち込まれていたようです。<BR>
<BR>
大奥が幕政に関わった事実として、一例をご紹介します。<BR>
<span style="color:#0000FF"><strong>１１代将軍・家斉</strong></span>の就任当初、幕政の主導権を巡って、<span style="color:#0000FF"><strong>田沼意次</strong></span>派と家斉の実父・<span style="color:#0000FF"><strong>一橋治済</strong></span>が激しく対立していました。<BR>
田沼意次自身は、<span style="color:#0000FF"><strong>１０代将軍・家治</strong></span>の薨去とともに老中を解任されましたが、幕閣には、いわゆる田沼派が多く残っており、この勢力に対立する形で治済が<span style="color:#FF0000"><strong>徳川御三家</strong></span>を味方に付けて<span style="color:#0000FF"><strong>松平定信</strong></span>を老中に擁立しようとしていました。<BR>
<BR>
田沼派は、大奥と良好な関係を持っており、その意を受けた大奥年寄・<span style="color:#0000FF"><strong>高岳</strong></span>と<span style="color:#0000FF"><strong>滝川</strong></span>は、将軍・家斉に対して<BR>
<strong>「惇信院様（９代将軍・家重）の御世、将軍家の縁者を政（まつりごと）に参与させてはならないという上意がございました」</strong><BR>
と意見を述べたと言います。<BR>
<BR>
大奥年寄が幕政の中心である老中人事に関して意見をすること、将軍が発言を許すこと、これは大奥が政に大きく関わっていた証拠ではないでしょうか。<BR>
<BR>
<BR>
先日の<span style="color:#FF0000"><strong>ＮＨＫ大河ドラマ「篤姫」</strong></span>では、<span style="color:#0000FF"><strong>天璋院</strong></span>が将軍たる<span style="color:#0000FF"><strong>慶喜</strong></span>を下座に控えさせて、意見をする場面がありました。<BR>
さすがに、それほど天璋院が主導的役割を果たしたとは思えませんが、慶喜が天璋院や<span style="color:#0000FF"><strong>和宮</strong></span>の力に頼ったことは明らかであり、二人が徳川の家名の存続に果たした力は無視できないものがあります。<BR>
<BR>
政治組織ではない大奥でしたが、記録に残りずらい事柄も含めて、様々な形で幕政に影響を与えていたのです。</span>
<br>
<br>
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<BR> ]]>
</content:encoded>
<dc:subject>大奥の話</dc:subject>
<dc:date>2008-11-17T23:24:53+09:00</dc:date>
<dc:creator>seisyo3</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
</item>
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<link>http://seisyonet.blog34.fc2.com/blog-entry-75.html</link>
<title>家茂将軍の素顔</title>
<description> 今回は、十四代将軍・家茂についてご紹介します。
幕末の動乱時期に１３歳で将軍となり、２１歳で病没するまで、短い波乱の人生を送った家茂とはどんな人物だったのでしょうか。


歴代の将軍家の座を巡っては、少なからずドラマがあるものですが、特に十四代将軍の座を巡っては、苛烈な政争が繰り広げられました。
この点については、これまでも触れてきたので詳細は省きますが、特徴的なことは幕閣、徳川御家門だけでなく、
 </description>
<content:encoded>
<![CDATA[ <span style="color:#000000">
今回は、十四代将軍・家茂についてご紹介します。<br>
幕末の動乱時期に１３歳で将軍となり、２１歳で病没するまで、短い波乱の人生を送った家茂とはどんな人物だったのでしょうか。<br>
<br>
<br>
歴代の将軍家の座を巡っては、少なからずドラマがあるものですが、特に十四代将軍の座を巡っては、苛烈な政争が繰り広げられました。<br>
この点については、これまでも触れてきたので詳細は省きますが、特徴的なことは幕閣、徳川御家門だけでなく、外様雄藩も絡んだ争いだった点と本人たちの意向と関係なく苛烈化していった点です。<br>
<br>
　　<span style="color:#FF0000"><strong>雄藩</strong></span>　・・・　政治力、経済力などの実力のある藩。<br>
<br>
<br>
当時、慶喜が２２歳、家茂は１３歳。<br>
慶喜については、幼少の頃から聡明であるという評判が一人歩きしていました。<br>
混迷の政局を収束していくには、もはや、お飾り将軍であってはならないという危機感が慶喜を押し上げていました。<br>
とはいえ、周りの思惑とは関係なく、慶喜自身は自分の評判が一人歩きする事を迷惑に思っていた節があります。<br>
<br>
<br>
一方、家茂（当時の名は慶福）については家定に血筋が近い（従兄弟）ということだけで、家茂の能力、人となりが語られることがほとんどありませんでした。<br>
<br>
家茂は、<span style="color:#FF0000"><strong>紀伊徳川家</strong></span>十一代・<span style="color:#0000FF"><strong>徳川斉順</strong></span>（なりゆき）の次男として生まれ、わずか４歳で紀伊徳川家十三代藩主となります。<br>
父の斉順は、十一代将軍・<span style="color:#0000FF"><strong>家斉</strong></span>の七男で<span style="color:#FF0000"><strong>清水徳川家</strong></span>当主から紀伊藩主となった人物ですが、家茂が生まれる前に没したため家茂は父を知りません。<br>
また、家茂自身も自分の子を持てなかった事を考えると肉親の情に恵まれなかった家茂の孤独感が垣間見える気がします。<br>
<br>
<br>
家茂の有名なエピソードとして次のようなものがあります。<br>
<br>
<strong>「家茂は、幼少の頃は池の魚や籠の鳥を可愛がるのを楽しみとしていた。<br>
しかし13歳の時に将軍となると、それらの楽しみを捨てて文武両道を修めるように努めた。<br>
病弱な体なのにささやかな楽しみすら捨て、良い将軍であろうと心がけていた姿は幕臣たちを当時も没後も感激させたという。」<br></strong>
<br>
<br>
多くの将軍がそうであったように家茂も健康で丈夫な体を持っているわけではありませんでした。<br>
ただ、書道の師匠が失禁した際に、それに気付いた家茂は、悪戯を装い、頭から水を浴びせ、恥をかかせないようにした話や後に妻の<span style="color:#0000FF"><strong>和宮</strong></span>にみせた心遣いなどもあわせて考えると非常に優しい心根を持った人物であったのがわかります。<br>
<br>
また、家茂は将軍職の責任の重大さを真摯に受け止める生真面目さも持ち合わせていました。<br>
五代将軍・<span style="color:#0000FF"><strong>綱吉</strong></span>や八代将軍・<span style="color:#0000FF"><strong>吉宗</strong></span>にも共通していると思いますが、養子であるがゆえに将軍以上に将軍でなければならないと強く意識していたと思います。<br>
<br>
家茂のイメージを映像化したならば、<span style="color:#FF0000"><strong>NHK大河「篤姫」</strong></span>で描かれているように育ちの良い好青年であったと言えると思います。<br>
幕臣に対しても、大奥に対しても、細かな心遣いをしたと伝えられ、没後も旧幕臣に慕われた将軍でした。<br>
辛口で有名な<span style="color:#0000FF"><strong>勝海舟</strong></span>でさえ、家茂を敬愛していたことは、その日記から伺うこともできます。<br>
<br>
ただ、その人望は幕末の激動を乗り切る力には成りえませんでした。<br>
<strong>慶応2年（1866年）</strong>、家茂は<span style="color:#FF0000"><strong>第２次長州征伐</strong></span>の途上、大坂城で病に倒れました。<br>
孝明天皇も、幕府も懸命に手を尽くし、家茂の回復を願いましたが２１歳の若さで力尽きるが如く薨去しました。<br>
<br>
<strong>「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれない。武勇にも優れていた人物であった」</strong>（勝海舟）<br>
<br>
<br>
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</span> ]]>
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<dc:subject>〔十四代〕家茂</dc:subject>
<dc:date>2008-09-28T22:30:45+09:00</dc:date>
<dc:creator>seisyo3</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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