徳川将軍家と大奥のブログ
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吉宗の逸話3
2007/12/01 22:50 [Sat]
category:〔八代〕吉宗
 吉宗が鷹狩に出かけた時のこと、田の畦を歩いている時、糞桶があって、ひっくり返してしまい、衣服も汚れてしまった。

 吉宗は衣服を着替えた後、
 「この糞桶の持ち主を連れて来い。」と命じた。

 供奉の者はどうなることかと心配しながら、その農民を連れてきた。

 吉宗は、農民に次のように言ったという。
 「お前は田を肥やし、実を豊かにしようと、糞を買って苦労して担いできたのに、わしが誤って無駄にしてしまった。
 その代価として、わしの着ていたこの衣服をつかわそう。」

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テーマ:歴史上の人物 - ジャンル:学問・文化・芸術

吉宗の逸話2
2007/12/01 22:47 [Sat]
category:〔八代〕吉宗
 吉宗がまだ紀州で部屋住みだった青年期のこと。

 町を近習とともにお忍びで歩いていた時、偶然、商人の夫婦喧嘩を立ち聞きすることとなった。

 隣人が仲裁に入ったが殿様の言葉ならいざ知らず、隣人の言葉は聞かぬ、と言ったのを耳にした。

 翌日、吉宗は家来に「殿様でない吉宗では不足だろうが、仲良くするように。」と喧嘩していた夫婦に伝えさせた。

 夫婦は恐れ入って仲良く暮らすようになったとのことである。

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吉宗の逸話1
2007/12/01 22:42 [Sat]
category:〔八代〕吉宗
 吉宗がまだ源六と呼ばれていた少年時代の頃、父の紀州候光貞が自分の子4人を集めて刀のつばの入った箱を見せ、好きなものを与えようと言った。

 源六は希望を言わないので光貞が理由を聞くと、
 「兄上達が選んだ後で箱のまま全ていただきたいと思っていました。」と答えた。

 光貞は年に似ず肝が太いと喜び、望みの通り箱ごと与えた。
 源六は家に帰ってから家来に刀のつばを2つずつ分かち与えたという。 

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なぜ、吉宗は人気があるのか?
2007/11/02 19:49 [Fri]
category:〔八代〕吉宗
徳川吉宗はなぜ人気があるのですか?
という質問を受けました。

私達がイメージする吉宗はマツケンの「暴れん坊軍」ですね。
個人的には「暴れん坊将軍」は好きですが、TVや小説の影響で吉宗人気が高いともいえます。
それではなぜTVや小説に取り上げられるのでしょうか?
それは一口に言うと吉宗個人の資質が高く、将軍としても親政に近い形で積極的に斬新な諸政策を推進したということでしょうか。
歴代将軍の中でも顔のみえる(目立った)将軍だったということです。
「家康の再来」「幕府中興の英主」と言われる所以です。

逸話として、側近に仕える者でも吉宗が怒って大きな声を出すことを聞いたことがないということや質素を旨として、どんなに寒くとも襦袢を下に着ることがなく、食事は一日3回が普及してきた時代に一汁三菜を日に2回しか取らなかったこと、大奥から美人を選び出し暇を出したなど・・・いろいろあります。
学問は、詩歌、文学などについては全く関心がなかったが、歴史、農業、地図、天文など実用的な学問については非常に熱心だったともいわれています。
体は当時においては飛びぬけて大きく182cm位でかなりの力持ちだったらしい。

政治的には、側用人を廃止し、老中が直接、言上できるようにして風通しを良くし、門閥に捕われず能力のある者(大岡忠相石川総茂など)を登用してブレーンを固めた。
政策的には、足高の制相対済まし令、米の増産、物価対策、江戸の防火対策など家康の政策を手本としながらも時代おいていかれた幕政の帳尻を何とかしようと非常に苦悩したようです。

などなど確かに吉宗は英主といえると思います。吉宗がいなければ幕府が15代もったかどうか。外圧を待たずに幕府が立ち行かなくなった可能性が高かったと思います。

ただし、暴れん坊将軍のように必ずしも庶民の味方というわけにはいかなかった点も強調する必要があると思います。

吉宗は幕府の赤字財政建て直しのために「コメ将軍」とあだなされるほどに米にこだわりました。米の増産のために強引な新田開発も行いました。それまで農村で草肥や薪の重要な供給源であった入会地をも新田開発の対象とされました。
また、今まで検見法といって毎年収穫前の稲の状況により年貢率が決められていたものが、過去数年間の収穫高を平均して年貢率を決め、毎年一定額を徴収するという定免法に切り替えられました。凶作の年には免除されるなどの措置もありましたが減税ではなく増税であったわけです。

吉宗は、幕府にとっては幕府中興の英主であっても、農民にとっては暴君に写っていたのかもしれません。


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