2008/01/19 20:38 [Sat] category: 〔十三代〕家定 篤姫が嫁いだ将軍・家定物語の後編です。
家定は、虚弱な体質であり、幕政をリードできるほどの資質を備えていなかったのは史実が証明するとおりです。
前回、ご紹介したとおり家定は、癇癖将軍とか芋公方などとあだ名されています。 家定には、何らかの体の障害があり、日常的に首を振ったり、手足が痙攣する体質であったことや饅頭やカステラを作ったり、豆を煮たり、芋をふかすことが好きだったためです。
このようなあだ名や逸話から家定の人間像は、知性に問題があって、子供のような事に熱中した子供同然、あるいは廃人のような将軍との印象を後世に与えています。
ところが、家定は、将軍としてアメリカ領事タウンゼント・ハリスの謁見を行った事で知られています。 幕臣がセットした舞台を演じただけという見方もできますが御側御用取次を勤めた竹本要斎の回顧談として次のような話があります。
「外国人などは畜生に近いものという時代に家定様には偏見がなく、外国の事情に通じていた外科医を手許に呼び寄せて、外国の事情を尋ね、得心のいかないことは更に幕府の通辞に調査を命じており、そのような事は前後の将軍にもなかったことである。」
次のような話もあります。 家定は、中奥の御山から、アメリカから贈られた高性能の望遠鏡で品川沖を眺め、ペリー艦隊の動静に心を悩ましていたと。
また、実際に家定は、幕府の武芸訓練機関である講武所にたびたび赴き、軍事調練や軍艦や大砲などの視察も行っている。
それでは、なぜ、家定の知性に問題のあるという評価が定着してしまったのでしょうか。 この評価の元となったのは「安政紀事」という本と言われています。著者は、内藤耻叟(ないとうちそう・元水戸藩士)。 私の蔵書にもありますが、内藤は「徳川十五代史」の著者としても有名で、後に帝国大学の教授になった人物ですが歴史学者の間では、記述に誤りの多い事も指摘されています。
家慶の時代から将軍職に嘱望されていた水戸家出身の慶喜を後継に指名せず、家定自身が慶喜嫌いであったため、もしかすると、元水戸藩士である内藤としては家定嫌いで殊更に厳しい記述となったのかもしれません。
家定は、安政3(1856)年12月18日、3度目の御台所・篤姫を迎えますが、安政5(1858)年7月6日に脚気衝心で薨去します。
平穏な時代であれば、家定も自分の人生を楽しみ、もう少し長生きも出来たのではないでしょうか。 ところが、時代は、家定に未曾有の外圧を与えます。
家定は、生まれながらに将軍になることを運命付けられて育ちました。 病弱な体と自分の能力の限界と闘い、絶望と孤独感に思い悩む事も多かったのではないでしょうか。
家定に、このような評価もあることを参考に大河ドラマ「篤姫」を見ていただきたいと思います。

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テーマ:歴史上の人物 - ジャンル:学問・文化・芸術
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家定だけではなく、阿部正弘や養父の島津斉彬も病没でしたね。
体調が厳しい現状になりましたね。
私のブログも夏に向けsisi家定の生母・本寿院の生涯将軍家の子供達初めまして。
今日の篤姫を見た後、ネットを見ているうちに辿り着いて、たいへん興味深く読ませていただいています。
以前、大河ドラマの「吉宗」を見ていたときにも染太郎七男でも将軍候補とされた理由慶喜と慶福以外に対抗馬がいなかったか?マー君さん、こんばんは
コメント承認が遅くなり申し訳ありません。
週一本の記事を自分でノルマとしているのですが、なかなか仕事の関係で時間がとれず、先週は飛ばし清正七男でも将軍候補とされた理由慶福(家茂)&慶喜の事が分かってきたところで、次の質問を致します。当時の徳川家一門には、慶福(家茂)&慶喜…この二人以外に次期将軍候補は居なかったんですか?歴史の表マー君七男でも将軍候補とされた理由マー君さん、こんばんは
コメントいただきありがとうございます。
家慶の時代の正室と側室(本寿院)との確執に注目されたわけですね。
理由の一つとして十分ありえる清正七男でも将軍候補とされた理由詳しいご説明有難うございました。七男と言っても兄たちが夭逝してたから実質三男みたいなモンですね。鳥取に兄が養子入りしてたんですね。鳥取に近い町に住んでるのに知りマー君将軍になりたくない理由慶喜って水戸家の七男ですよね。何故、七男なのに将軍継嗣に推挙されたんですか?長子継承の観点から見て慶喜の兄達が将軍継嗣に推挙されて然るべきだと思うのですが、その辺の事情マー君