2008/04/26 22:41 [Sat] category: 〔十五代〕慶喜 前回に続いて、大政奉還後の慶喜の行動について、ご紹介します。
慶喜の採った大政奉還に対して、薩長側は慶応3年12月9日、岩倉具視・西郷隆盛の主導により、薩摩兵が御所九門を固め、親幕派の摂政や朝彦親王らの参内を阻止して15歳の明治天皇を戴き、王政復古の大号令を発するのです。
王政復古の大号令は、慶喜から見れば、薩長勢力による武力クーデターに他なりません。
この時点では、慶喜は恭順どころか、激怒して対決姿勢を鮮明にします。
一方で慶喜自身、兵とともに京都に留まる事は、武力衝突を招く恐れがあるため大坂城に身を引きます。
大坂城に入った慶喜は、兵と軍艦を集めて薩長側に圧力を加えると同時に、諸外国代表とも次々に引見して自らの正当性と同時に諸外国の内政不干渉を訴えます。
このような慶喜の動きに触発されたように薩長勢力に制圧された京都では、肥後藩・筑前藩・阿波藩など在京諸藩から薩長兵の引揚げの要求が出され、諸外国代表からは王政復古の撤回要求が朝廷に出されます。
結果、朝廷では12月22日に従前同様に徳川家による大政委任の継続を承認した告諭が出されることとなります。
この事は、事実上、王政復古を無実化したことを示すものであり、12月9日のクーデター以前の状態に引き戻したということでもありました。
ここまでの慶喜の政治豪腕は、まさに権現様(家康)をみるような巧みさで大いに評価できるものと言えるでしょう。
しかし、薩長側は幕府側を挑発することによって、武力討伐の大義名分を得ようとします。
慶応3年12月、江戸では隊伍を組んだ浪士が押し込み、強盗、放火などの乱暴を働く事件が相次ぎます。
また、江戸城に火を放ち、混乱に乗じて和宮、天璋院(篤姫)が薩摩に連れ去られるのではないかという流言が飛び交うようになります。
通説では、これらの騒動は、西郷隆盛の指示のもとに益満休之助、伊牟田尚平らが実行したものとされていますが、これらの騒ぎに便乗した無頼の浪士たちも同様の事件を起こしたことから益々、江戸の治安が乱れ、ますます幕府の威信が下がる事態となったのです。
このような事態に佐幕派急先鋒の庄内藩、松山藩は業を煮やし、幕府の弱腰を非難。
ついに2藩を主力とする幕軍が薩摩藩邸を包囲、犯人の引渡しを求める事態となります。これを拒否した薩摩との間で戦闘となり、薩摩藩邸と薩摩藩支藩の佐土原藩邸が焼失します。
この事件は、大坂に集結する幕軍を刺激して、大いに戦意が盛り上がり、ここに慶喜は京都の軍事的封鎖を目的として、鳥羽・伏見両面の進軍を承認するに至るのです。
このあと、慶喜は鳥羽伏見の戦いに敗れ、一転、恭順姿勢を採るのですが、その理由は次回に!
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家定だけではなく、阿部正弘や養父の島津斉彬も病没でしたね。
体調が厳しい現状になりましたね。
私のブログも夏に向けsisi家定の生母・本寿院の生涯将軍家の子供達初めまして。
今日の篤姫を見た後、ネットを見ているうちに辿り着いて、たいへん興味深く読ませていただいています。
以前、大河ドラマの「吉宗」を見ていたときにも染太郎七男でも将軍候補とされた理由慶喜と慶福以外に対抗馬がいなかったか?マー君さん、こんばんは
コメント承認が遅くなり申し訳ありません。
週一本の記事を自分でノルマとしているのですが、なかなか仕事の関係で時間がとれず、先週は飛ばし清正七男でも将軍候補とされた理由慶福(家茂)&慶喜の事が分かってきたところで、次の質問を致します。当時の徳川家一門には、慶福(家茂)&慶喜…この二人以外に次期将軍候補は居なかったんですか?歴史の表マー君七男でも将軍候補とされた理由マー君さん、こんばんは
コメントいただきありがとうございます。
家慶の時代の正室と側室(本寿院)との確執に注目されたわけですね。
理由の一つとして十分ありえる清正七男でも将軍候補とされた理由詳しいご説明有難うございました。七男と言っても兄たちが夭逝してたから実質三男みたいなモンですね。鳥取に兄が養子入りしてたんですね。鳥取に近い町に住んでるのに知りマー君将軍になりたくない理由慶喜って水戸家の七男ですよね。何故、七男なのに将軍継嗣に推挙されたんですか?長子継承の観点から見て慶喜の兄達が将軍継嗣に推挙されて然るべきだと思うのですが、その辺の事情マー君