徳川将軍家と大奥のブログ
十五代の将軍家と謎の多い大奥について語るブログです!
スポンサードリンク

プロフィール

seisyo3

Author:seisyo3
「武士の時代」の管理人・清正です。
よろしくおねがいします。
武士の時代
アラフィフのクラウドな気分
tyukamanをフォローしましょう

サイトマップ

全ての記事を表示する

Tree-CATEGORY

リンク

このブログをリンクに追加する

最近の記事+コメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

管理人へメール

あなたの名前とメルアド、タイトル、内容を入力して確認ボタンを押すと管理人に送信されます。

名前:
メール:
件名:
本文:

RSSリンク

はじめに


   このブログは、15人の徳川将軍家と大奥の周辺についてのブログです。

   本館HPは   ⇒ 武士の時代
   歴史とは関係ないですが ・・・ アラフィフのクラウドな気分
  歴史ブログ集はこちら >>> 歴史ブログ 江戸時代

スポンサーサイト
--/--/-- --:-- [--]
category:スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

 │ 
家康の逸話3
2007/12/27 22:04 [Thu]
category:〔初代〕家康
 自分の死期が近いことを悟った家康は、見舞いに来た諸将に向かい

「わしの天寿も終わろうとしている。もし、秀忠の政道に誤りがあらば、誰でも変わって天下をとれ。天下は一人の天下でなく、天下の天下であるから、わしは少しも恨みに思わない。」

と言って、諸将を見据えたという。 
スポンサーサイト

テーマ:歴史上の人物 - ジャンル:学問・文化・芸術

家康の遺言とその周辺2
2007/11/30 17:30 [Fri]
category:〔初代〕家康
今回は、家康の神格化の話題です。
家康を「権現」として祀るべきだと主張したのは天海「明神」として祀るべきだとたのが崇伝
両者とも黒衣の宰相と呼ばれた家康の側近にして天台宗と臨済宗を代表する宗教界の重鎮でもあります。
ちなみに天台宗と臨済宗を簡単に説明します。

天台宗(天海)・・・日本天台宗の開祖は最澄(伝教大師)。法華経(ほけきょう)が中心経典であり、本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。他の諸仏は釈迦如来が姿を変えて現れたもので本尊はどの仏像でも良く、人はもちろん草や木でさえも成仏できる一切皆成(いっさいかいじょう)という教え。

臨済宗(崇伝)・・・日本臨済宗の開祖は栄西。禅宗の一つで経典に頼らず、仏の心そのものにたち帰って、禅問答を通じて自分自身が悟りを開きなさいという教え。特徴として師から弟子への悟りの伝達(法嗣、はっす)により現在に伝わっている。

結果は周知のとおり、家康は東照大権現として祀られる事になります。
当初、将軍・秀忠も崇伝の路線を承認し、久納山での家康の埋葬式も吉田神道の神式に則って行われ、社殿の建設にあたっても大明神造りを指示していました。

権現と明神とは何が違うのか?
権現というのは天海が唱えた山王一実神道による神号で「神が権(仮に)現れる」あるいは「仏が権(仮に)に神の姿で現れる」と言う意味で天台宗の教義にも通じ、神仏習合という神と仏の信仰を折衷、融合調和する従来の仏教界の態度であると言えます。

対して明神というのは吉田神道における神号で「神は仮の姿ではなく明らかな姿をもって現れる」と言う意味です。吉田神道は伝統的な神道に対して、神こそが唯一であり、仏はこの世に現れた仮の姿であるとする教えです。

宗教的には持つ意味が違う神号ですが、どちらがより位が高いというものではなさそうです。結局は、明神号で神として祀られた秀吉の豊臣家は滅亡し、神格も剥奪された前例が不吉であるという天海の主張が認められたということです。

ちなみに、東照大権現は天皇の祖先である天照大神が念頭にあったのは言うまでもありません。
1617(元和3)年2月、正式に朝廷より「東照大権現」の号を勅賜され、三代家光が遺言の「小さな堂」(日光)を大伽藍に変え、1645(正保2)年に重ねて「東照宮」の宮号宣下を受けるに及んで家康の神格は完了しました。


にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ

バナーをクリックしていただくと、このブログのランキングが上がります。
よろしくお願いします。

家康の遺言とその周辺
2007/11/30 17:20 [Fri]
category:〔初代〕家康
「臨終したならば、体を久能山に納め、葬礼を増上寺に申し付け、位牌は三河の大樹寺にたて、一周忌が過ぎて以後、日光山に小さな堂を建て、勧進するよう。八州の鎮守になろう。」
有名な家康の遺言です。

金地院崇伝の日記である「本光国師日記」によれば、家康は死の半月ほど前の元和2(1616)年4月2日、枕元に本多正純、金地院崇伝、南海坊天海の3人を呼んで死後の事について指示を与えています。また、4月6日には増上寺存応大樹寺魯道も家康に招かれており、彼らにも何らかの指示があったものと思われます。

4月17日巳の刻(午前十時)、駿府城で家康は永眠したとされていますが、それ以前、14日頃にはすでに亡くなっていたという説もあります。

家康の遺骸は、その日の夜のうちに久能城に移され、神竜院梵舜の指揮のもとに墓が造営されて19日には、梵舜の奉じる唯一宗源神道により埋葬式が行われました。
その後、増上寺にも家康の霊廟が造営されます。
法号は「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」

ここまで書いているとずいぶん多くの宗教家の名前が出てきます。
家康の帰依した宗教は何だったのでしょう?

戦場の家康の本陣には「厭離穢土、欣求浄土」」(えんりえどごんぐじょうど)という浄土宗の念仏が書かれた軍旗が翻っていました。また、遺言にもある三河の松平家菩提寺である大樹寺、将軍家菩提寺となった増上寺も浄土宗です。

家康の懐刀として方広寺大仏殿の鐘銘事件で豊臣家を追い詰め、伴天連追放令、寺院法度、公家諸法度の制定にも関与、黒衣の宰相と恐れられた金地院崇伝は臨済宗
同じく黒衣の宰相と呼ばれ、比叡山、日光、神田神社、寛永寺などを再興・創建するなど将軍家三代に渡り、主に宗教面で絶大な力を発揮した天海は天台宗
豊臣時代から秀吉はもちろん、前田家などにも絶大な信仰を得、家康もまた深く信仰していた豊国神社別当の梵舜は吉田神道

こう見てくると家康は、一つの宗教に固執してないように見えます。
浄土宗・臨済宗・天台宗・神道などいろんな宗教を学びながらも、政治家として宗教界のバランスを考慮していたことが大きいのだと思います。

家康の遺言とその周辺、まだ続きがありますが、それは次回。

にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ

バナーをクリックしていただくと、このブログのランキングが上がります。
よろしくお願いします。

家康の逸話2
2007/11/02 22:10 [Fri]
category:〔初代〕家康
 今川人質時代、竹千代が鷹狩をしていると鷹が誤って、孕石主水の屋敷に迷い込むことが多かった。

 ある日、主水は竹千代に向かい「人質のくせに鷹狩りとは生意気なやつだ。お前の
顔には、飽き飽きするわ。」と憎らしげに言ったと言う。

 後年、武田の高天神城を落とした時、降人の中に主水がいた。

 家康は直々に「久しいのう主水。そちがむかし、わしの顔を見飽きたとほざいたのを忘れてはいまい。わしもそちの顔など見飽きたわ。」と言い、切腹を命じたという。

テーマ:歴史上の人物 - ジャンル:学問・文化・芸術

家康の逸話1
2007/11/01 21:29 [Thu]
category:〔初代〕家康
 秀吉の晩年のこと、諸大名を相手に自分の所持する茶碗など天下の珍品を大いに自慢したことがあった。

 いたずら心を起こした秀吉は家康に「大納言殿はどのような宝をお持ちかの」と聞いた。

 家康は動ずることなく
「私は田舎者ゆえ、ご披露するようなものは、一切持ち合わせていません。ただ私のためならいつでも水火をいとわぬ家臣が五百騎ばかりいます。これが私の宝です。」といった。

 秀吉は、ばつが悪そうに自慢話を止めてしまったとのことである。

テーマ:歴史上の人物 - ジャンル:学問・文化・芸術


絶対おすすめ!

管理人の所蔵本のうち、価値ある本としておすすめする本です

スポンサードリンク

アンケートサイト

gooリサーチモニターに登録!

マクロミルへ登録

ブログランキング

にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
 クリックして応援お願いします。

アフィリエイト

アフィリエイトならリンクシェア

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ご訪問者

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。