徳川将軍家と大奥のブログ
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大奥が与えた影響
2008/11/17 23:24 [Mon]
category:大奥の話
久しぶりの記事投稿です。

大奥が幕政に大きな影響を与えたことは、よく指摘されますが具体的にどのような形で表の政治に関与したのか実は良くわかっていません。

本来、大奥というのは、御台所(将軍の正室)や側室や生母、彼女らに仕える女中の生活の場であり、政治を行う場ではありません。
しかしながら大奥は将軍に近侍して仕えるために、大奥の意向を将軍に直接伝えることができること、何より将軍の妻であり母である人の意向を将軍自身も幕閣も無視しにくいということは容易に想像できます。

江戸時代の武家社会では、参勤交代のように制度化されたものでも参勤(江戸に出府)、交代(国に帰る)の時期をなじみの幕僚に伺いを立てたり、猟官運動(役職に就くこと)にも様々な伝手で口利きを依頼したりと人的繋がりが不可欠なシステムとなっていました。
その中で、親戚筋などを頼り、大奥女中にも様々な形で願いなどが持ち込まれていたようです。

大奥が幕政に関わった事実として、一例をご紹介します。
11代将軍・家斉の就任当初、幕政の主導権を巡って、田沼意次派と家斉の実父・一橋治済が激しく対立していました。
田沼意次自身は、10代将軍・家治の薨去とともに老中を解任されましたが、幕閣には、いわゆる田沼派が多く残っており、この勢力に対立する形で治済が徳川御三家を味方に付けて松平定信を老中に擁立しようとしていました。

田沼派は、大奥と良好な関係を持っており、その意を受けた大奥年寄・高岳滝川は、将軍・家斉に対して
「惇信院様(9代将軍・家重)の御世、将軍家の縁者を政(まつりごと)に参与させてはならないという上意がございました」
と意見を述べたと言います。

大奥年寄が幕政の中心である老中人事に関して意見をすること、将軍が発言を許すこと、これは大奥が政に大きく関わっていた証拠ではないでしょうか。


先日のNHK大河ドラマ「篤姫」では、天璋院が将軍たる慶喜を下座に控えさせて、意見をする場面がありました。
さすがに、それほど天璋院が主導的役割を果たしたとは思えませんが、慶喜が天璋院や和宮の力に頼ったことは明らかであり、二人が徳川の家名の存続に果たした力は無視できないものがあります。

政治組織ではない大奥でしたが、記録に残りずらい事柄も含めて、様々な形で幕政に影響を与えていたのです。


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家定の生母・本寿院の生涯
2008/06/22 19:15 [Sun]
category:大奥の話
NHK大河「篤姫」では、将軍・家定の生母・本寿院が将軍家後継を巡って、篤姫に対決姿勢を露わにしていきそうです。

前回ご紹介したとおり、本寿院は大の水戸嫌い水戸斉昭の子である一橋慶喜が将軍後嗣となることに大変な拒否反応を示していました。
ただ、ドラマではともかく、本寿院と篤姫が深刻に対立したという記録はないようです。

本寿院の落飾前の名前は、お美津の方(竪子)中級旗本・跡部氏の娘でした。
姉が家慶の弟付き女中であった縁で西ノ丸大奥御次として奉公に上がったとされています。
また、一説には、後に家定の乳母となる歌橋がお美津を大奥に奉公させたとも言われています。

御次という役職は仏間や膳部等の道具を整えたり、掃除などをする役目でさほど高い身分ではありませんがお目見え以上でもあり、行事で芸事を披露することが多かったとされていますから、そのような機会に当時まだ将軍世子であった家慶の目に止まったのかもしれません。

家慶は、正室の他に生涯15人程度の側室を持ち、27人の子供を持ちましたが、成人まで成長したのは家定だけでした。お美津の方も家定のあとに2人の男子を出産しましたが幼いうちに亡くなっています。

お美津の方は、家慶のお手が付いて慣例どおり御中に昇進します。
更に家慶が12代将軍になると老女上座という地位を与えられます。
このことはお上並み即ち将軍家の身内としての待遇を与えられたということで、お美津は大奥内で不動の地位を築くことになります。

ただし、家定の養育は専ら乳母の歌橋に委ねられため、人見知りの家定は専ら歌橋に懐いていたといわれています。
また、中級旗本出身から高い身分となったお美津にとって、トイレにお供を連れて入るという習慣は、受け入れ難かったらしく頑なに拒んだという微笑ましいエピソードが伝えられています。

嘉永6(1853)年、家慶が逝去するとお美津は、落飾して本寿院と名を改めます。
更に家定が逝去してからも大奥に留まりますが、14代将軍家茂が和宮を江戸城に迎えるに当たって、大奥を去り、二ノ丸へ移りました。

江戸城開城の際、本寿院は名を聞くのも嫌った一橋邸に天璋院(篤姫)とともに身を寄せました。

明治に入ってからの消息は、伝わるところが少なく一橋邸で亡くなったとも、居を転々としたとも言われ、亡くなったのは明治17(1884)年とも明治18(1885)年とも伝えられています。

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大奥の水戸嫌い
2008/06/15 15:34 [Sun]
category:大奥の話
NHK大河「篤姫」について、indoor-mamaさん(今日は何の日?徒然日記)から

「一橋派と南紀派の争いで大奥が慶福(家茂)を推す理由として水戸嫌いが強調されているが、水戸と大奥の間に何かモメる原因があったのでしょうか」
という趣旨のコメントをいただきました。

実は、この点は重要な視点であるにも関わらず、あまり取り上げられることがないような気がします。

一般には、慶喜の父である水戸斉昭の女グセの悪さと大奥にまで口を出すアクの強さが特に家定将軍生母の本寿院に毛嫌いされたと言われています。


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女グセの悪さという点で江戸学の権威である三田村鴛魚は次のような事件を紹介しています。

斉昭の兄である斉脩(なりのぶ)の正室・峯姫(11代将軍・家斉の娘)に大奥から従った絶世の美女、唐橋に斉昭が手を出し、懐妊させてしまいました。

唐橋は、上臈年寄いう大奥最上位の位であったから将軍の命令でも、寵愛を受けることがないのが通例であったのに手を出してしまった。


    大奥の職制については ⇒⇒⇒ こちら


しかも、12代将軍・家慶が将軍世子であった頃、この唐橋に求愛したが振られていたというオマケまで付いていました。

この斉昭の手クセの悪さに対し、表向きは水戸藩の天保の改革が行き過ぎたという口実のもとに隠居・蟄居に処せられたといいます。

以上、いかにも裏史的で斉昭らしいエピソードではありますが、そのような事実があったとしても、その事がどれほどの影響を与えたのかは疑問があると思っています。


斉昭は、攘夷を声高に唱え、気随驕慢な人物像ばかりが一人歩きしている感があります。
しかし、斉昭は藩主に就くと同時に身分に囚われない人材登用、自ら質素倹約の範を示し、租税の合理化、藩校弘道館や郷校の建設、農村救済など藩政改革に成功を納めています。
この水戸藩の天保の改革は、幕府の天保の改革や他藩の藩政改革の先駆けとなったものでした。
また、斉昭は開国改革政策を推進する阿部老中の協力者でもありました。

少し、テーマからずれてしまいましたが、本寿院をはじめとする大奥にとっては、御三家の当主という家格と実績を後ろ盾として歯に絹を着せず、幕政に口を出すだけではなく大奥に質素倹約まで迫る斉昭が嫌悪されたのは当然だったのでしょう。

また、少し遡りますが12代将軍・家慶は、慶喜を気に入って将軍世子の扱いをしようとして老中に止められたこともあるほどでしたが、このことが家定生母である本寿院の水戸嫌いの元凶だったのかもしれません。


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大奥側室の存在~お志賀の方
2008/05/24 17:21 [Sat]
category:大奥の話
NHK大河「篤姫」では、篤姫のライバルとして側室お志賀の方(鶴田真由)が登場しています。

お志賀は実在の人物です。
しかし、お志賀については、詳しいことがわかっておらず、これまでは余り描かれることの少ない人物でした。

伝わるところによると、旗本・堀美濃守の娘でお目見え以下の御三の間からお目見え以上の中臈(ちゅうろう)になったといいます。
御三の間というのは旗本の娘が最初に就く役職であり、将軍のお手が付けば中臈に上がりますから、特別なことではないのですが、将軍・家定の側室はお志賀しかいないことを考えると何か特別な事情があったのかもしれません。(おちかの方という側室もいたとする説もあり)

ただ歴代将軍と比較すると側室が一人というのは、非常に特異なことでした。
徳川の血筋を残すことが家定に課された大きな使命だったはずですが、よく言われるように家定に子作り能力がなかったのかもしれません。

また、私見ですが、家定自身、
「余は名ばかりの将軍じゃ、次期将軍のことまで家臣どもがとやかく言っておる。自分の子に将軍職を譲っても余のような不幸者を作るだけじゃ。
徳川の血筋など他にいくらもあるではないか。」

という心境だったのかもしれません。

ところで側室という存在は、第二夫人というイメージが強く、御台所に準ずる特別な待遇があったと思われがちです。
確かに江戸時代前期には、将軍の特別な寵愛を受ければ、自分の待遇だけではなく一族が大出世することも可能でしたが、六代将軍・家宣時代に大奥の構造も変化し、側室といえども女中の一人であるということが徹底されるようになります。

江戸時代後期になると、御台所や将軍生母などは御殿向に独立の部屋があるのに対して、側室というだけでは長局で他の女中一緒に生活しなければなりませんでした。
妊娠して、はじめて御殿向きに専用の部屋をあてがわれたのです。
ちなみに将軍お手付きとなると内証の方と呼ばれ、女子を生むと御腹さま、男子であればお部屋さまと呼ばれました。

お志賀もあくまでも中臈の一人ですが、家定は心を許していたのか、大奥に足繁く通ったといいます。 また、お志賀は美人ではないが、綺麗に見えたという大奥女中の話が残っています。
家定が35歳で世を去った時、お志賀は40代であったといわれ、かなり年上だったということを考えればお志賀の家定に対する思いは、母性愛に近いものだったのかもしれません。


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御台所の一日2
2008/05/18 22:40 [Sun]
category:大奥の話
全く意図していなかったのですが、先週のNHK大河「篤姫」でも御台所の日課みたいなことを解説していましたね。
さて、前回に引き続き御台所の一日の午後編です。 ⇒⇒ 御台所の一日1(午前編)

九ツ時(12時)、昼食をとり終わると入浴です。
お湯は、湯船の水を沸かすのではなく、別の場所で沸かして適温になったお湯を運ぶので非常に手間がかかりました。
以前は、朝に入浴をしていましたが、あまりに慌しいので昼にしたといいます。
御台所は腰掛けていれば、掛の御中臈が白木綿の糠袋で御台所の体を洗ってくれました。1回の入浴で糠袋を7、8つ使いました。

八ツ時(14時)御小座敷で大奥の主だった者たちと集まり、お茶とともに羊羹や饅頭などを楽しみます。
日によっては、将軍も大奥に入って御台所とくつろぎの時間を過ごしました。
「おやつ」という言葉は、八ツ時から生まれたのですが、実は3時ではなく、2時くらいだったのです。

七ツ時(16時)、夕食の時間です。
現代感覚からすると、少し早いようですが8時に朝食、12時に昼食、16時に夕食で等間隔なのです。
ちなみに日本人が三食となるのは江戸時代中期からで、それ以前は朝と夕の二食でした。

それはともかく、夕食は現代と同じように三食の中で一番豪華で器も朝、昼は木製でしたが夕食だけは陶器を使いました。
夕食の後は、朝から4回目の衣装替えで、これを夕御召し、別名「御楽召」といい多少、楽な衣装を身に着けます。

その後、就寝までは近侍の者を相手に世話話をしたり、読書や習い事の時間を持ちました。
五ツ半(21時)には就寝。
寝る前の着替えを御寝御召しといいます。

なんと一日5回の衣装替えが行われるのですが、御台所は常に衣装を汚さないように気を使ったといいます。
というのも、御台所の衣装は、御納戸払いと称して足袋、腰巻に至るまで洗濯することなしに大奥の女中に払い下げられるからです。

以上が御台所の一日ですが、時代や人により多少の違いがあることをお断りしておきます。

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