徳川将軍家と大奥のブログ
十五代の将軍家と謎の多い大奥について語るブログです!
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将軍になりたくない理由
2008/06/29 20:35 [Sun]
category:その他将軍家の話
NHK大河「篤姫」では、一橋派の旗色が悪くなってきたようです。

前回もご紹介しましたが本寿院は大の水戸嫌いではありましたが、篤姫と表立って対立した事実はないようです。
本寿院は、家定の実母で将軍家の身内の待遇ではありましたが、前将軍・家慶の側室ですから正室たる篤姫とは身分が異なり、後の天璋院(篤姫)と家茂の御台所・和宮との対立とは、事情が違うところだと思います。

篤姫は、義父・島津斉彬から託された「一橋慶喜を次期将軍にする」という使命を果たそうとしますが、反一橋派で固められた大奥の中にあって万策尽きたのか、本寿院、滝山歌橋らに理があると感じてしまったのか成果を挙げることができませんでした。

ところで、この時点で慶喜自身が将軍職を望んでいたのか否かについては、いろんな見方があるようです。

大河ドラマでは、阿部正弘島津斉彬の前でも、篤姫との対面でも「将軍候補に推されるなど迷惑」だといわんばかりの態度で周囲を落胆させていますが実際はどうだったのでしょうか。

慶喜は父・水戸斉昭宛てた書状で
「最近、私が将軍家の養子になる話があるが、もし父上が城中でこれを聞かれた場合には、絶対そのような事はあり得ないと申してほしい」と書いています。

また、後に日本資本主義の父と謳われた慶喜の家臣・渋沢栄一「徳川慶喜公伝」では、慶喜自身の言葉でこの時の心境を語っていますので、私の現代語訳でご紹介したいと思います。


「余を将軍家の御養君としようと動いている者がいる事は、各方面から聞き及んでいた。
松平慶永川路聖謨岩瀬忠震島津斉彬などからも将軍となる身であるから学問が必要であること、身体を大切にすべきことなど注意を受けたこともあった。

平岡円四郎(一橋家家老)からも熱心に御養君となるよう勧められたけれども、西丸へ入っても何の見込みも立たないため、固辞した。
(中略)

余がこのように御養君となることを嫌った理由は、当時の幕府は既に衰亡の兆をみせていただけではなく、大奥の状態を見ると老女というのは実に恐るべきもので、実際、老中以上の権力があった。 このような状態では改革などできず、引き受けたとしても、徹底した立直しを図る見込みなどないからである。

よって予は、真実、御養君の事はお受けしないと決心したのである。(以下略)」


慶喜は、なかなか本心を見せない人だったために、本人が否定しても逆に取られてしまいがちですが大奥の権力にまで言及しているあたり、言い訳には思えないのですがどう思われるでしょうか?


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一橋慶喜と紀伊慶福の将軍家後継争い
2008/06/08 10:28 [Sun]
category:その他将軍家の話
NHK大河「篤姫」では、いよいよ一橋家当主・慶喜(平岳大)と紀州藩主・慶福(松田翔太)との将軍家後継争いが始まるようです。

一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)は、後の十五代将軍・徳川慶喜で、徳川慶福(とくがわ よしとみ)は十四代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)です。

一橋慶喜を推していたのは、老中・阿部正弘、実父・徳川斉昭、、越前藩主・松平慶永、尾張藩主・徳川慶勝、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信などそうそうたる顔ぶれで一般に一橋派と言われます。

一橋派は、譜代大名が牛耳ってきた幕政の改革なくしては、日本が立ち行かなくなるという危機感を抱いている人たちでした。

従来は、外様大名が幕政改革を目指すことなどはありえませんでしたが、このような流れは、12代将軍・家慶の時代の水野忠邦による天保の改革が失敗したことによる幕政に対する不満が大きく影響していました。
このことが、前回ご紹介した阿部老中が幕閣以外から広く意見を求めるという前代未聞の政治にも繋がっていきました。


一方、慶福を推したのは、井伊直弼を筆頭とする溜間詰めの大名や老中・松平忠固、紀州徳川家付家老・水野忠央、御側御用取次・平岡道弘などが中心で一般に南紀派と言われます。

この中では、水野忠央の働きは目覚しく、大奥に入念な工作を行い、将軍生母・本寿院や年寄・滝山など完全に慶福派に仕上げます。
大奥の意向が将軍・家定に与えた影響は大きかったと言われています。

これらの人々は、幕府の秩序を乱す一橋派の動きに反感を持つ人たちでした。
幕政は、将軍を戴いた老中以下が行うものであり、次期将軍は現将軍との血筋を考えれば慶福以外にありえないと考えていたのです(慶福は、家定の従兄弟)。


このように一橋派は改革派、南紀派は保守派であり、将軍家後継争いというより本質は、政争でした。当事者の慶喜と慶福の思想信条には関係なく、また、2人が将軍職を望んで対立したものではなかったのです。
また、両派が、互いに朝廷の信認を求めたところから、ますます混乱を深めていったのです。

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将軍家の正月
2008/01/01 22:26 [Tue]
category:その他将軍家の話
新年明けましておめでとうございます。
今年が皆さんにとって幸多い年となりますように!

さてさて、今日は元旦ですから年始の将軍は、どのように過ごしていたかについて紹介したいと思います。

実は、正月三が日は、諸大名や旗本、医師、観世太夫などお目見え資格を持つ者が将軍に対する年始の御礼言上に押し寄せます。
将軍は、朝六ツ半(朝7時)から長い時間をかけて多くの人々の挨拶を受けなければならず、諸大名等にとっても早朝から登城して、緊張の時を待たなければなりません。
正月早々、大変あわただしいと言えます。

拝謁の順は、身分・家格によって3日に分けて行われます。
元旦は、まず将軍の私邸に当たる江戸城中奥の御座之間で将軍世子、御三卿の挨拶を受けます。
いわば、家長に対する家族の挨拶といえるでしょう。

次いで、将軍は公の場である表向の白書院に出御して御三家、前田家、松平(越前)家など身分・家格の高い順に独礼で拝謁を受けます。
独礼とは、将軍が上段之間に着座して下段に控える拝謁者一人一人の挨拶を受けることを言います。
その際でも、奏者番が拝謁者を披露して、将軍は「めでたい」などと声をかける程度でした。

白書院で独礼できるのは、四位以上の者であり独礼が終了すると、今度は大広間で五位以下の者の拝謁をまとめて立礼形式で行われます。
立礼は、将軍が大広間下段之間に立ち、下段之間に続く二之間、三之間に平伏する拝謁者の挨拶をまとめて受ける形式です。

このようにしても、たっぷり3日かかったと言うから江戸の町は正月から登城ラッシュでかなり騒がしかったのではないでしょうか。

ところで現在でも、皇室では正月三が日は、元旦の午前5時半から始まる四方拝に続き、歳旦祭、一般祝賀、元始祭と大変多忙な時間を過ごされています。


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徳川将軍家の宗教2
2007/12/03 18:37 [Mon]
category:その他将軍家の話
徳川将軍家の宗教の話の続きです。

歴代将軍は、家康、家光、慶喜を例外として死後、徳川家菩提寺である芝増上寺と上野寛永寺に葬られました。
今回は、慶喜の話です。

慶喜屋敷跡慶喜は、大政奉還、鳥羽伏見の戦いを経て謹慎生活に入り、旧徳川将軍家は田安家達が16代を継ぎ、慶喜とその一族は別家扱いとなりました。
慶喜は、静岡、後には東京で明治・大正と長い余生を送り、天寿をまっとうしました。

慶喜の墓は、東京都台東区の谷中墓地神式によって葬られました。
旧徳川将軍家と別家となったため、その菩提寺に葬られることはなかったのですが、神式によるのは慶喜の指示であったと言われています。

なぜ、仏式でなく神式だったのでしょうか。
幕末の動乱は、勤皇 Vs 佐幕の図式で語られますが、当の孝明天皇は幕府から政権を取り戻すことは全く望んでおらず、慶喜も勤皇の総本山である水戸家の出身で天皇を敬う事に関しては、将軍となってからも変わりませんでした。

また、慶喜は後に名誉回復がなされ、公爵が授けられました。
このことは慶喜に勤皇の思いをより強くさせたことは容易に想像できます。

それと幕末から吹き荒れていた廃仏毀釈運動が影響していたと思われます。
明治新政府は、神道を国教として神と仏を分離する政策をとりましたが、副作用として仏教が弾圧される結果を引き起こし、華族の墓は、仏式から神式に変更されました。

このような事情から慶喜は、将軍家菩提寺ではなく、また仏式でもないとという形で葬られたのです。
ちなみに旧将軍家を継いだ家達は、将軍家菩提寺である寛永寺に葬られています。


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徳川将軍家の宗教1
2007/12/03 18:20 [Mon]
category:その他将軍家の話
文字色今回は、徳川将軍家の宗教の話です。

大樹寺徳川家が、まだ三河の小領主だった頃、松平家の菩提寺は大樹寺でした。
大樹寺は、浄土宗の寺で家康から五代前の安城城主松平親忠が創建したといわれています。(異説あり)
このことから、松平家の「家の宗教」は浄土宗だったと言えると思います。

増上寺徳川家が関東に移封された際に、江戸にあった浄土宗の増上寺が大樹寺との関係から徳川家の菩提寺となりました。
最初に増上寺に葬られた徳川家の人間は、二代将軍・秀忠の子の長丸だったと言われています。家康が征夷大将軍に任じられる前年の慶長7(1602)年のことでした。
その後、増上寺には、秀忠家宣家継家重家慶家茂の6人の将軍が葬られました。

寛永寺また、もう一つの菩提寺である寛永寺は、天台宗の寺で家綱綱吉吉宗家治家斉家定の6人の将軍が葬られました。
寛永寺は、天海により江戸城の鬼門(北東の方角)除けの祈願所として建立されました。
天海は、比叡山延暦寺で天台宗を学んだと言われており、比叡山が京都御所の鬼門除けであることを模して、寛永寺を鬼門除けとして山号を東叡山(東の比叡山)と命名したのです。

三代将軍・家光は、天海を父のように慕っており、自分の葬儀を天海創建の寛永寺で行うように命じて以来、寛永寺は祈願寺から菩提寺とされるようになりました。

このように徳川家の菩提寺は、浄土宗の芝増上寺と天台宗の上野寛永寺の2つあり、現代の感覚からすると違う宗教の寺を菩提寺とするのは不思議な感じがします。
ただ、他の大名家の例をみても江戸と国許にそれぞれ菩提寺を持っていることがむしろ、普通であり、また、宗派の違う寺を菩提寺とする例もあることから将軍家だけが例外ではないのかもしれません。

ところで歴代将軍15代のうち、増上寺にも寛永寺にも葬られていない将軍が3人います。
言うまでもなく家康は、他の将軍家とは別格で、神格化され、初め久能山に葬られた後、日光東照宮に移葬されました。
三代将軍・家光は、家康を慕う事、尋常ではなく、死後も家康のそばに眠る事を熱望したため日光山輪王寺に葬らました。

例外中の例外が15代将軍・慶喜です。
その話は、次回とします。


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