徳川将軍家と大奥のブログ
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篤姫展で思ったこと
2008/04/05 15:48 [Sat]
category:篤姫(天璋院)
今週、関東地方で仕事があったため、時間を見つけて江戸東京博物館で開催されている篤姫展に行ってきました。

想像以上の客入りで客の7割は、中高年の女性で熱心に書状等に見入る人が多くいました。
書籍などでいろんな知識が頭にあるものの、実際に篤姫が書いた書状や身の回りの品々を見ると少しだけ篤姫の心情や当時の微妙な政治情勢がよりリアルに理解できたような気がします。

・篤姫の将軍家輿入れは、それ自体が実現しない恐れや側室として入る可能性もあったということ

・家定が描いた書画を見ると、決して暗愚という一言で評価出来る人物ではないということ

・篤姫は、慶喜を次期将軍家に立てることに積極的ではなかったこと

・幕府瓦解後、篤姫は完全に徳川家の人となり、出身の薩摩に対して不快感さえ覚えていたらしいこと

そして、篤姫展の最後のパネルに徳川家と島津家の現当主が篤姫を讃える言葉を掲げていたのが印象的でした。


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天璋院篤姫のクイズ挑戦者求む!
2008/02/10 11:29 [Sun]
category:篤姫(天璋院)
天璋院篤姫についてのクイズ問題を作成しました。
気軽に挑戦してみてください。

クイズは武士の時代にありますがこちらから入ることもできます

「篤姫」基本問題


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篤姫が注目される理由
2008/01/05 00:10 [Sat]
category:篤姫(天璋院)
NHK大河ドラマ「篤姫」の初回放送日が迫ってきましたね。
前回に引き続き、篤姫について紹介します。

皆さんは、御台所を何人、ご存知でしょうか?
二代・秀忠の御台・お江与、六代・家宣の御台・近衛熙子(天英院)、十四代・家茂の御台・和宮、そして篤姫でしょうか。

それでは、なぜ、篤姫が小説や大河ドラマの主役となるほど注目されるのでしょうか?

一つには、前回書いたように他の御台所のほとんどが皇族・摂関家という将軍家に引けを取らない姫たちだったのに対して、18歳まで薩摩で育った島津藩主の支族に過ぎない姫が御台所になるという特異性にあります。

また、一橋慶喜を次期将軍家に押すという政治的な使命のもとに、大奥に送り込まれたということ。これも極めて、異例なことだと言えるでしょう。
篤姫がこの使命に、どの程度、忠実であったのか想像するしかありませんが、結果的には井伊直弼が大老に就任したことにより、実現しませんでした。何よりも、篤姫は、どうした理由か慶喜のことが嫌いであったと言われています。

そして、篤姫が歴史上に名を残す最も大きな理由は、幕府瓦解時に東征軍が迫りくる中で1千人ともいわれる女中を立ち退かせ、自身は和宮とともに徳川の人間として、徳川の家名を守るために尽力したことが挙げられます。

幕臣までが篤姫に江戸城退去を進めますが
「一歩もここを出ません。もし、無理にというのであれば自害して果てます。」
と篤姫は断固拒否したのです。

また、江戸城に向かってくる東征軍の実質的な総大将は東征大総督府下参謀・西郷隆盛でしたが、篤姫にとって家臣筋とも言える西郷に対して篤姫が送った書簡を最後にご紹介します。

「私が徳川家に嫁いだ以上は、当家の土となるのはもちろんですが、家定様がおられない以上は、亡き夫のため、徳川家の安全を祈るほかありません。
自分の生きている内に徳川家にもしものことがあれば、あの世で夫に面目が立たないと日夜、寝食も充分に取れず悲歎に暮れている事をどうぞ、お察し下さい。
徳川の家名が存続することをお許し願うことは、私一人の命を助けていただくことよりも重くありがたいことです。」


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なぜ、篤姫は御台所となったのか
2008/01/04 00:03 [Fri]
category:篤姫(天璋院)
このブログ初の大奥ネタです。
今年のNHK大河ドラマは、「篤姫」ですね。
今後、篤姫の周辺については何度か書いていくつもりですが、今回は篤姫がなぜ将軍家に嫁いだのかを簡単に紹介したいと思います。

大河を見る上での予備知識にしていただければ幸いです。

篤姫(敬子、天璋院)は、薩摩藩主一門の今和泉領主・島津忠剛の娘として生まれましたが、藩主・島津斉彬の養女となり、後に近衛家の養女となって十三代将軍・家定に嫁ぐことになります。

歴代将軍家の御台所は、四代以降、ほぼ皇族、摂関家から迎えられており、家定も鷹司家から姫を迎えていましたが病死し、次いで一条家から迎えた姫も病死してしまいます。
大奥の主である御台所が次々と変わるようでは秩序が保てません。そこで白羽の矢が立ったのが篤姫だったわけです。

関が原の戦いと幕末の歴史をみれば、薩摩藩の姫が将軍家御台所となるのは、少し不自然に思われますが、この頃の薩摩藩は少なくても政策的には親幕府だったのです。
実は家定の祖父である十一代将軍・家斉の御台所は、同じく薩摩藩の姫で茂姫(広大院)でした。
そして、茂姫は長命であり、成人こそしなかったものの2人の子を産んでいるため、大奥では、次の御台所は薩摩からとの要望が大きかったのです。

また、政治的にみれば、篤姫が生まれたのは天保6(1836)年、幕藩体制の矛盾が噴出し、激動の幕末期に突入する直前でした。
当時の筆頭老中・阿部正弘や薩摩藩主・島津斉彬らは、難局に耐えうる聡明な将軍家として次期将軍に一橋慶喜をと考えており、そのためには意を含ませた姫を大奥の主に送り込む事としたのです。


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