徳川将軍家と大奥のブログ
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家継の逸話1
2007/11/30 18:25 [Fri]
category:〔七代〕家継
 四歳の幼い身で将軍となった家継にとって、側用人・間部詮房は父のような存在であったという。

 詮房が出かけ戻ってくる時には
 「越前(詮房のこと)を迎えに出よう」
 といって外で待っており、帰ってくるとうれしそうに間部に抱きついたという。

 また、逆に他の者が遠慮して言えないことであっても、間部からはきつく叱られた。
 家継が聞き分けがない時は「越前が参ります」というとおとなしくなったという。

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テーマ:歴史上の人物 - ジャンル:学問・文化・芸術

表右筆と奥右筆Ⅱ
2007/11/30 18:09 [Fri]
category:その他
前回に引き続き、江戸幕府の右筆の話です。
もの書きとしての表右筆の職務は、将軍の御内書判物朱印状老中奉書、触書、日記、名簿などの執筆でした。
場合によっては、執筆された書き物を読み上げる事も職務の一つでした。ただし、奥右筆と違って機密に属しない類の情報を扱ったと言われています。どこまでが機密なのかは難しい問題ですが・・・。

御内書というのは、将軍のプライベートな書状で大名から将軍に対する献上物に対する礼状などに用いられ、将軍の黒印が押印されていました。
判物は、花押が書かれたものであり、所領の宛がいや安堵の場合は十万石以上か四位侍従以上の大名に用いられました。これに対して朱印状は朱印が押印されたもので十万石以下の大名に対するものです。
奉書は、将軍などの意向を奉って老中などが自分の名の下に発給する文書の事です。

次に奥右筆の職務は、勝手掛、仕置掛、隠居家督掛、縁組官位補任掛、寺社掛、証文掛、外国掛などに分かれており、例えば、老中から何かの評議を指令された場合に各担当の役職が評議して、奥右筆に廻ってきます。この評議が妥当か否か先例を調べ尽くして妥当かどうかを審査して老中に差し戻します。奥右筆の判断が老中の決定を大きく左右したようです。

また、ある役に旗本を就ける場合に、奥右筆の縁組官位補任掛が旗本の監視役である目付からの意見や風聞書を参考として意見書を作成します。いわば、事務方として決定権を有していて、よほどのことがない限りはそれが最終決定となったのです。

このように、奥右筆は非常に力のあった職務でしたが、幕末に奥右筆であった幕臣からの聞き取りによると、先例を調べることは記憶力も相当ないと勤まらない仕事であって、作業量も膨大なものであったと述べています。

奥右筆の職務は幕政全般に渡り、しかも大きな力を持っていたため、各藩では’用頼み’と称して特定の奥右筆と出入り関係を結び、江戸在住の留守居役を中心として情報収集に努めていました。当然に奥右筆の懐には、諸藩からの報酬が入り、大藩と複数の出入り関係を結んでいる奥右筆の懐は、大身の旗本以上であったと言われています。

これらの報酬は、現代の感覚で言えば賄賂そのものですが、行過ぎは、問題とされたものの当時は公然のものであったようです。

右筆に興味を持っていただけましたでしょうか?

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表右筆と奥右筆Ⅰ
2007/11/30 18:03 [Fri]
category:その他将軍家の話
江戸幕府には500近い役職数があったと言われています。
今日は、その中で右筆について書いてみたいと思います。

右筆(祐筆)というのは、平たく言えば書記のようなものですが、様々な事柄を文章にします。
文章にするためには、達筆というだけでは足りず、様々な物事に通じている必要があります。

古くは中国の王朝で皇帝の左右にあって、言動を記録した史官が右筆のルーツとなっていますが、徳川幕府の右筆は、慶長元年(1596)年に家康が建部昌興を右筆に起用して法令の文案を作成させたことがルーツと言われています。

五代将軍に迎えられた綱吉は、館林藩主時代からの右筆であった蜷川親煕(にながわちかひろ)を奥右筆組頭として自分のブレーンに迎え、この時から表右筆と奥右筆が分化します。
表右筆の職務は、従来どおり書記でしたが、奥右筆は、将軍や老中などの側近に仕えて機密に携わることを職務としました。言わば、要職の秘書官のようなものです。

奥右筆の”奥”とは、機密という意味あいがありますが、綱吉時代の奥右筆の江戸城内の詰所は、将軍のプライベート空間ともいえる中奥に設けられており、将軍の側近であったことがわかります。
表向に詰所のあった表右筆に対して’奥’右筆であったわけです。(綱吉以後は、詰所が表向に移動している)

次に右筆の身分についてですが、表右筆は組頭で役高300俵、平の表右筆で150俵で、定員は時代によって変遷があるものの30人(幕末80人)。
これに対して奥右筆は組頭で役高400俵、平で200俵、定員は20人でした。
いずれにしても、身分的に高くはありませんでしたが、特に奥右筆の権勢は相当のものであって、役高以外の見入りも多かったと言われています。
その理由については、次回に。


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家康の遺言とその周辺2
2007/11/30 17:30 [Fri]
category:〔初代〕家康
今回は、家康の神格化の話題です。
家康を「権現」として祀るべきだと主張したのは天海「明神」として祀るべきだとたのが崇伝
両者とも黒衣の宰相と呼ばれた家康の側近にして天台宗と臨済宗を代表する宗教界の重鎮でもあります。
ちなみに天台宗と臨済宗を簡単に説明します。

天台宗(天海)・・・日本天台宗の開祖は最澄(伝教大師)。法華経(ほけきょう)が中心経典であり、本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。他の諸仏は釈迦如来が姿を変えて現れたもので本尊はどの仏像でも良く、人はもちろん草や木でさえも成仏できる一切皆成(いっさいかいじょう)という教え。

臨済宗(崇伝)・・・日本臨済宗の開祖は栄西。禅宗の一つで経典に頼らず、仏の心そのものにたち帰って、禅問答を通じて自分自身が悟りを開きなさいという教え。特徴として師から弟子への悟りの伝達(法嗣、はっす)により現在に伝わっている。

結果は周知のとおり、家康は東照大権現として祀られる事になります。
当初、将軍・秀忠も崇伝の路線を承認し、久納山での家康の埋葬式も吉田神道の神式に則って行われ、社殿の建設にあたっても大明神造りを指示していました。

権現と明神とは何が違うのか?
権現というのは天海が唱えた山王一実神道による神号で「神が権(仮に)現れる」あるいは「仏が権(仮に)に神の姿で現れる」と言う意味で天台宗の教義にも通じ、神仏習合という神と仏の信仰を折衷、融合調和する従来の仏教界の態度であると言えます。

対して明神というのは吉田神道における神号で「神は仮の姿ではなく明らかな姿をもって現れる」と言う意味です。吉田神道は伝統的な神道に対して、神こそが唯一であり、仏はこの世に現れた仮の姿であるとする教えです。

宗教的には持つ意味が違う神号ですが、どちらがより位が高いというものではなさそうです。結局は、明神号で神として祀られた秀吉の豊臣家は滅亡し、神格も剥奪された前例が不吉であるという天海の主張が認められたということです。

ちなみに、東照大権現は天皇の祖先である天照大神が念頭にあったのは言うまでもありません。
1617(元和3)年2月、正式に朝廷より「東照大権現」の号を勅賜され、三代家光が遺言の「小さな堂」(日光)を大伽藍に変え、1645(正保2)年に重ねて「東照宮」の宮号宣下を受けるに及んで家康の神格は完了しました。


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家康の遺言とその周辺
2007/11/30 17:20 [Fri]
category:〔初代〕家康
「臨終したならば、体を久能山に納め、葬礼を増上寺に申し付け、位牌は三河の大樹寺にたて、一周忌が過ぎて以後、日光山に小さな堂を建て、勧進するよう。八州の鎮守になろう。」
有名な家康の遺言です。

金地院崇伝の日記である「本光国師日記」によれば、家康は死の半月ほど前の元和2(1616)年4月2日、枕元に本多正純、金地院崇伝、南海坊天海の3人を呼んで死後の事について指示を与えています。また、4月6日には増上寺存応大樹寺魯道も家康に招かれており、彼らにも何らかの指示があったものと思われます。

4月17日巳の刻(午前十時)、駿府城で家康は永眠したとされていますが、それ以前、14日頃にはすでに亡くなっていたという説もあります。

家康の遺骸は、その日の夜のうちに久能城に移され、神竜院梵舜の指揮のもとに墓が造営されて19日には、梵舜の奉じる唯一宗源神道により埋葬式が行われました。
その後、増上寺にも家康の霊廟が造営されます。
法号は「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」

ここまで書いているとずいぶん多くの宗教家の名前が出てきます。
家康の帰依した宗教は何だったのでしょう?

戦場の家康の本陣には「厭離穢土、欣求浄土」」(えんりえどごんぐじょうど)という浄土宗の念仏が書かれた軍旗が翻っていました。また、遺言にもある三河の松平家菩提寺である大樹寺、将軍家菩提寺となった増上寺も浄土宗です。

家康の懐刀として方広寺大仏殿の鐘銘事件で豊臣家を追い詰め、伴天連追放令、寺院法度、公家諸法度の制定にも関与、黒衣の宰相と恐れられた金地院崇伝は臨済宗
同じく黒衣の宰相と呼ばれ、比叡山、日光、神田神社、寛永寺などを再興・創建するなど将軍家三代に渡り、主に宗教面で絶大な力を発揮した天海は天台宗
豊臣時代から秀吉はもちろん、前田家などにも絶大な信仰を得、家康もまた深く信仰していた豊国神社別当の梵舜は吉田神道

こう見てくると家康は、一つの宗教に固執してないように見えます。
浄土宗・臨済宗・天台宗・神道などいろんな宗教を学びながらも、政治家として宗教界のバランスを考慮していたことが大きいのだと思います。

家康の遺言とその周辺、まだ続きがありますが、それは次回。

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家宣の逸話2
2007/11/29 21:21 [Thu]
category:〔六代〕家宣
 家宣が死の床についたとき、間部詮房を通じ新井白石に将軍継嗣について次のように相談したという。

 「鍋松(家宣の子、当時4歳)は幼く、古来、幼主の時に世が平穏であったためしが少ない。

  また、天下の事は私すべきものではない。

  東照宮が御三家を立てられたのは、このような時のためであるから、自分の後は尾張殿に譲り鍋松が成人した折には、尾張殿の心に任せた方が良いか、あるいは鍋松が成人するまで尾張殿には西丸にいて政治を執ってもらい、不幸にして鍋松が死んだ場合に尾張殿に将軍家を継いでもらった方が良いか、この2案のうちどちらが良いか。」


 白石は2案とも反対し、鍋松を継嗣とし、譜代の臣がこれを支えることを進言したので家宣もそのとおりとし決し、まもなく死去した。

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家宣の逸話1
2007/11/29 20:51 [Thu]
category:〔六代〕家宣
 前将軍綱吉は「生類憐みの令」を厳守することを遺言したが、家宣は葬儀の2日前に綱吉の柩の前で柳沢吉保に次のように言ったという。

 「生類憐みの禁令に触れ、罪に落ちた者は数知れない。私は天下万民のために、あえて遺命に背くこととする。」
 この時、罪を許された者は八千数百人にも上ったという。

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綱吉の逸話2
2007/11/28 14:35 [Wed]
category:〔五代〕綱吉
 将軍職をついでまだ日が浅い延宝9(1681)年6月、前代に裁きが終わっていた松平光長家のお家騒動について、当事者の小栗美作永見大蔵を呼び出した上で綱吉自身が前将軍の決定を覆す採決をした。

 すなわち、松平光長は領地没収、小栗美作父子に切腹、永見大蔵に遠島と決定したのである。

 この時、老中堀田正俊が決定を言い渡した後、綱吉は
 「これにて決裁す、はやまかり立て」と大音声で言ったという。

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綱吉の逸話1
2007/11/28 14:30 [Wed]
category:〔五代〕綱吉
 生類憐みの令により民衆を苦しめたことで有名な綱吉であったが、まだ将軍宣下を受ける前から直轄領の代官たちに次のとおり諭したとされる。

 「支配者が寛やかに民を扱うと、民は奢りに走り本業を怠る。奢侈を許してはいけない。
  民は為政者を信用していない。為政者もまた民を疑っている。このようなことが起こらないように意思の疎通に心がけよ。
  代官等は率先して身を慎み、職務をよく理解し、年貢の収納に努め、下役に任せ切りにせず、自らが先に立って職務に精励することが肝要である。」

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家綱の逸話3
2007/11/28 14:29 [Wed]
category:〔四代〕家綱
 家綱が食事をしていた時、汁物を飲もうとすると髪の毛が入っていた。

 家綱は平然と髪の毛を箸でつまんで取り出したが、小姓があわて新しいものと交換しようとした。

 家綱はその小姓に対し
 「その汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように。」と言った。

 これは椀を空にすることにより、普段のおかわりと同様に扱えということで、咎められる者が出ないようにとの配慮からであった。

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家綱の逸話2
2007/11/28 14:23 [Wed]
category:〔四代〕家綱
 遠島になった罪人の話を聞いた家綱は、彼らは何を食べているのだろう、と近臣の者に尋ねたが誰も答えることができなかった。

 そこで、家綱は
 「命を助けて流罪にしたのに何故、食料を与えないのか。」と言った。

 それを、聞いた家光は喜び、「これを竹千代(家綱)の仕置きはじめにせよ。」と命じ、流人に食料を与えるようになったという。

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家綱の逸話1
2007/11/07 14:16 [Wed]
category:〔四代〕家綱
 家綱が将軍職を継いで間もない頃、即ち家綱が少年時代のこと、江戸城本丸の天守閣に上った際、側近の者が遠眼鏡をすすめたところ、

 「自分は少年ながら将軍である。もし将軍が天守から遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れたら、おそらく世人は嫌な思いをするに違いない。」と遠眼鏡を手にしなかったという。

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家光の逸話3
2007/11/06 00:01 [Tue]
category:〔三代〕家光
 家光は秀忠の逝去に伴い、諸大名を前に次のように言ったという。

 「東照宮が天下を平定なさるに際しては、諸侯の力を借りた。秀忠公も元はおのおの方の同僚であった。しかるに、わたしは生まれながらの将軍であるから前二代とは格式が違う。
 従って、おのおのがたの扱いは以後、家臣同様である。」

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家光の逸話2
2007/11/05 23:58 [Mon]
category:〔三代〕家光
 鷹狩の帰りのこと、家光の行列の先に一人の男が酔いつぶれて寝ていた。

 家光が家来に命じ、訳を聞かせると
 「今日は恵比寿講だったため、酒を飲んでいたが、あの者が酔いつぶれてしまった。担ぎこもうとしたが、将軍さまのお通りに間に合わなかった。」ということであった。

 これを聞いた家光は
 「それは気持ち良い事だ。もっと、酒を飲ませてやると良い。肴でもとらそう。」
と言って狩りで仕留めた鳥を下賜させたという。

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家光の逸話1
2007/11/05 23:52 [Mon]
category:〔三代〕家光
 日光東照宮の造営にあたり、家光は造営の惣奉行である秋元但馬守泰朝
 「費用はいかほどか。」と予算額を聞いたところ、泰朝は「百万両ほどです。」と答えた。

 竣工の時も泰朝に「いかほどかかったか。」と聞いた。
 泰朝は予算を多めに言ったのに実際に百万両かかってしまったため、恐る恐る「急ぎの造営だったので百万両程かかりましたでしょうか。」と答えたところ、

 家光は「思いのほか要らなかったな。」と答えたと言う。

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秀忠の逸話3
2007/11/04 22:47 [Sun]
category:〔二代〕秀忠
 家康が存命中はその意に従い、没後もよく遺訓に従ってきた秀忠であったが自分が死の床についた時、家光を枕もとに呼び、次のように言った。

 「徳川家が天下を取って、まだ日も浅い。今まで制定した法令も完全なものとはいえない。近いうちに、これを改正しようと思っていたが、不幸にしてその志を果たすことができない。私が死んだあとは、少しもはばかることなく、これを改正せよ。これこそが我が志を継いだことになるのだ。」

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秀忠の逸話2
2007/11/03 22:43 [Sat]
category:〔二代〕秀忠
 秀忠は特に鼓を打つことを好んだが、将軍となってからは一度も鼓に手を触れなかった。

 将軍ともなれば、気が向くままに鼓を打てば良いものを、と誰しもが不審に思っていたところ、ある時、近侍の者が、その理由を聞いたところ

 秀忠は
 「上の好むものは下も必ず好むものである。今、私が鼓を好むとなれば貴賎を問わず鼓を好み、武備がおろそかになることを恐れるのだ。」と答えたという。

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秀忠の逸話1
2007/11/03 22:19 [Sat]
category:〔二代〕秀忠
 律儀将軍とあだ名された二代将軍・秀忠の逸話。

 ある時、家康は本多正信に
 「将軍家の律儀には困ったものよ。人は律儀だけではいかぬものよ。」と言った。

 それを聞いた正信は早速、秀忠に
 「上様には時には、うそを仰せられたほうが良いのではありませんか。」と言ったところ、

 秀忠は

 「大御所さまのうそなら誰でも買うだろうが、私がうそをついても誰も買うまい。」と言ったという。

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家康の逸話2
2007/11/02 22:10 [Fri]
category:〔初代〕家康
 今川人質時代、竹千代が鷹狩をしていると鷹が誤って、孕石主水の屋敷に迷い込むことが多かった。

 ある日、主水は竹千代に向かい「人質のくせに鷹狩りとは生意気なやつだ。お前の
顔には、飽き飽きするわ。」と憎らしげに言ったと言う。

 後年、武田の高天神城を落とした時、降人の中に主水がいた。

 家康は直々に「久しいのう主水。そちがむかし、わしの顔を見飽きたとほざいたのを忘れてはいまい。わしもそちの顔など見飽きたわ。」と言い、切腹を命じたという。

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なぜ、吉宗は人気があるのか?
2007/11/02 19:49 [Fri]
category:〔八代〕吉宗
徳川吉宗はなぜ人気があるのですか?
という質問を受けました。

私達がイメージする吉宗はマツケンの「暴れん坊軍」ですね。
個人的には「暴れん坊将軍」は好きですが、TVや小説の影響で吉宗人気が高いともいえます。
それではなぜTVや小説に取り上げられるのでしょうか?
それは一口に言うと吉宗個人の資質が高く、将軍としても親政に近い形で積極的に斬新な諸政策を推進したということでしょうか。
歴代将軍の中でも顔のみえる(目立った)将軍だったということです。
「家康の再来」「幕府中興の英主」と言われる所以です。

逸話として、側近に仕える者でも吉宗が怒って大きな声を出すことを聞いたことがないということや質素を旨として、どんなに寒くとも襦袢を下に着ることがなく、食事は一日3回が普及してきた時代に一汁三菜を日に2回しか取らなかったこと、大奥から美人を選び出し暇を出したなど・・・いろいろあります。
学問は、詩歌、文学などについては全く関心がなかったが、歴史、農業、地図、天文など実用的な学問については非常に熱心だったともいわれています。
体は当時においては飛びぬけて大きく182cm位でかなりの力持ちだったらしい。

政治的には、側用人を廃止し、老中が直接、言上できるようにして風通しを良くし、門閥に捕われず能力のある者(大岡忠相石川総茂など)を登用してブレーンを固めた。
政策的には、足高の制相対済まし令、米の増産、物価対策、江戸の防火対策など家康の政策を手本としながらも時代おいていかれた幕政の帳尻を何とかしようと非常に苦悩したようです。

などなど確かに吉宗は英主といえると思います。吉宗がいなければ幕府が15代もったかどうか。外圧を待たずに幕府が立ち行かなくなった可能性が高かったと思います。

ただし、暴れん坊将軍のように必ずしも庶民の味方というわけにはいかなかった点も強調する必要があると思います。

吉宗は幕府の赤字財政建て直しのために「コメ将軍」とあだなされるほどに米にこだわりました。米の増産のために強引な新田開発も行いました。それまで農村で草肥や薪の重要な供給源であった入会地をも新田開発の対象とされました。
また、今まで検見法といって毎年収穫前の稲の状況により年貢率が決められていたものが、過去数年間の収穫高を平均して年貢率を決め、毎年一定額を徴収するという定免法に切り替えられました。凶作の年には免除されるなどの措置もありましたが減税ではなく増税であったわけです。

吉宗は、幕府にとっては幕府中興の英主であっても、農民にとっては暴君に写っていたのかもしれません。


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家康の逸話1
2007/11/01 21:29 [Thu]
category:〔初代〕家康
 秀吉の晩年のこと、諸大名を相手に自分の所持する茶碗など天下の珍品を大いに自慢したことがあった。

 いたずら心を起こした秀吉は家康に「大納言殿はどのような宝をお持ちかの」と聞いた。

 家康は動ずることなく
「私は田舎者ゆえ、ご披露するようなものは、一切持ち合わせていません。ただ私のためならいつでも水火をいとわぬ家臣が五百騎ばかりいます。これが私の宝です。」といった。

 秀吉は、ばつが悪そうに自慢話を止めてしまったとのことである。

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老中の罷免
2007/11/01 18:43 [Thu]
category:その他将軍家の話
「老中はどうやってクビになるのでしょうか?」
という質問をいただいたことがあります。

今、改めて考えても難しい問題です。
以下、答えになっていないことを承知で書かせていただいています。

老中というのは江戸幕府の機構の中では万機の政を統ぶる人臣の極官」といわれるほどの権力の中枢です。そのような人がどうしてクビになるのかは不思議といえば不思議です。

老中の定員は時代により変わりますが4~5名で重要事項は基本的に合議制で行います。
老中同士では、一番古株の先任老中が格上となりますが実質的には、家格の高い老中がリーダーシップを取ったようです。もちろん、将軍から特に老中首座を命じられた場合はこの限りではありませんが。
江戸幕府の機構は南・北・中の江戸町奉行の例を引くまでもなく、将軍家以外のほとんどの役職が複数名任命されることになっており個人に権力が集中しにくい組織となっています。

このように老中個々人が最高権力者というよりも老中全員による機関が実質的政務決定機関であるといえます。老中個々人は最高権力者という訳ではありませんから、老中同士の権力争いあるいは他の勢力から糾弾され罷免に追い込まれることもあるわけです。
政務決定の責を追う老中も将軍家の信任はもちろん御三家、溜りの間など諸方面のバックアップがないとなかなか仕事ができないのです。

罷免される一番の理由は、将軍の信任が得られなくなった場合でしょう。
老中を罷免するのは、将軍以外にはいないのです。そして将軍もまた自らの意思一つで老中の首をはねたり、すえたりすることは難しいでしょう。この辺がとても政治的なところです。

一例として天保の改革についていえば、水野忠邦が将軍家慶を棚上げして政務を行ったのではなく、むしろ家慶が家斉時代の弛緩した幕政を一掃し、幕藩体制と貨幣経済の発展の矛盾を解決を強く願い、水野忠邦を老中首座に据え、忠邦はその意を受け政策により具現化していった図式であるといえます。

ところが、諸政策は思ったほどの効果が得られず、既得権を侵される人々を中心に反対勢力が大きくなっていきました。
そのような勢力から押されたのが、老中・土井利位(としつら)で、はじめは忠邦に協力していましたが反対派の急先鋒となり、紀州家をも味方につけることに成功、これらの勢力の力で将軍・家慶も忠邦を罷免せざるおえなくなったのです。


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