徳川将軍家と大奥のブログ
十五代の将軍家と謎の多い大奥について語るブログです!
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家慶の逸話2
2007/12/29 17:07 [Sat]
category:〔十二代〕家慶
 家斉が死去し、家慶の親政が実現した天保12年、老中達に対し家慶の改革に対する考え方を布達した。

 それには、弛みきった幕政を享保・寛政期の原則に戻すことを根本原理に据え、「たとえ将軍の沙汰であっても規定に触れるものや不条理であるものは、遠慮なく申し出るように」という自らの恣意性をも否定する強い決意が秘められていた。


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テーマ:歴史上の人物 - ジャンル:学問・文化・芸術

家慶の逸話1
2007/12/29 17:03 [Sat]
category:〔十二代〕家慶
 家慶が将軍になったのは44歳の時であり、かなりの高齢だが、それでもまだ前将軍の家斉が大御所として実権を持っていたので家慶は、政務に対する情熱を持てなかった

 そのせいか家慶に決裁を仰ぐと下問もなく「そうせえ」と言うのみであったため、「そうせえ様のお許しである」と陰口を叩かれていたという。


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家斉の逸話2
2007/12/29 17:01 [Sat]
category:〔十一代〕家斉
 家斉は官位を望み、ついには将軍としては空前絶後の太政大臣にまで昇りつめ、それのみならず、生活のほうも奢侈に走り、その風は下々まで及び、特に幕政の綱紀の乱れが激しかった。

 大御所になった家斉は将軍となった子の家慶に対し、「猿楽に耽るな」と諭したとされるが、家斉自身が奢侈な生活をしていたため、説得力がなかった。


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家斉の逸話1
2007/12/29 16:58 [Sat]
category:〔十一代〕家斉
 家斉は、御三卿の一橋家で生まれたが、この時、屋敷のあたり一面が真っ赤な光がただよっていて、その色がさめた時、家斉が生まれたという。

 後に家斉が将軍家に迎え入れられた時、一橋家の人々は、例の赤い光はこの慶事の前兆だったかと噂したという。


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家治の逸話3
2007/12/28 23:28 [Fri]
category:〔十代〕家治
 ある激しい雨の日、家治は、ひとりの近習が空を見上げため息をついているのを目にした。

 別の者にため息のわけを聞いたところ、
 「あの者は貧しく、家が朽ちて雨漏りがしており、今ごろ親が苦心していることを思っているのでしょう。」と答えた。

 更に家治はいくらあれば直せるのか聞くと「百両もあれば直せると思います。」と答えた。

 家治はひそかに、ため息をついていた近習を呼ぶと「孝を尽くせ。」と百両を渡したという。


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家治の逸話2
2007/12/28 23:25 [Fri]
category:〔十代〕家治
 家治は、祖父である吉宗のように名君たらんと、いつも意識し、食べ物にしても変わったものが出ると

 「これは先々代様も食べられたものか。」と確認するほどだったという。


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家治の逸話1
2007/12/28 21:52 [Fri]
category:〔十代〕家治
 将軍の起床は6時となっていたが、家治も50歳近くなり早く目が覚めることが多くなった。

 そんな時は、座敷の中を音を立てないよう行ったり来たりして6時になるのをひたすら待っていた

 厠に行く時も当番の御小納戸役を起こさないように抜き足差し足で廊下を歩いたという。


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家重の逸話2
2007/12/28 21:02 [Fri]
category:〔九代〕家重
 ある日、家重が庭を散策している時、急に何事か侍女に命じたが誰もその言葉を解することができず、癇癪を起こしてしまった。

 困った侍女達は、唯一、家重の言葉を解する側用人 大岡忠光に来てもらい「今日は風が吹いて寒いから、羽織を着たい。」と言っていたのがはじめてわかった。

 家重は過度の飲酒により、日常的に言語障害をきたしていたのである。


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家重の逸話1
2007/12/28 20:57 [Fri]
category:〔九代〕家重
 家重は生まれつき多病で酒色に浸るなど気性も軟弱であったが、草花をこよなく愛し、名造花師の七郎兵衛をたびたび召し出し、その細工を楽しんだという。

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家康の逸話3
2007/12/27 22:04 [Thu]
category:〔初代〕家康
 自分の死期が近いことを悟った家康は、見舞いに来た諸将に向かい

「わしの天寿も終わろうとしている。もし、秀忠の政道に誤りがあらば、誰でも変わって天下をとれ。天下は一人の天下でなく、天下の天下であるから、わしは少しも恨みに思わない。」

と言って、諸将を見据えたという。 

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徳川将軍家の宗教2
2007/12/03 18:37 [Mon]
category:その他将軍家の話
徳川将軍家の宗教の話の続きです。

歴代将軍は、家康、家光、慶喜を例外として死後、徳川家菩提寺である芝増上寺と上野寛永寺に葬られました。
今回は、慶喜の話です。

慶喜屋敷跡慶喜は、大政奉還、鳥羽伏見の戦いを経て謹慎生活に入り、旧徳川将軍家は田安家達が16代を継ぎ、慶喜とその一族は別家扱いとなりました。
慶喜は、静岡、後には東京で明治・大正と長い余生を送り、天寿をまっとうしました。

慶喜の墓は、東京都台東区の谷中墓地神式によって葬られました。
旧徳川将軍家と別家となったため、その菩提寺に葬られることはなかったのですが、神式によるのは慶喜の指示であったと言われています。

なぜ、仏式でなく神式だったのでしょうか。
幕末の動乱は、勤皇 Vs 佐幕の図式で語られますが、当の孝明天皇は幕府から政権を取り戻すことは全く望んでおらず、慶喜も勤皇の総本山である水戸家の出身で天皇を敬う事に関しては、将軍となってからも変わりませんでした。

また、慶喜は後に名誉回復がなされ、公爵が授けられました。
このことは慶喜に勤皇の思いをより強くさせたことは容易に想像できます。

それと幕末から吹き荒れていた廃仏毀釈運動が影響していたと思われます。
明治新政府は、神道を国教として神と仏を分離する政策をとりましたが、副作用として仏教が弾圧される結果を引き起こし、華族の墓は、仏式から神式に変更されました。

このような事情から慶喜は、将軍家菩提寺ではなく、また仏式でもないとという形で葬られたのです。
ちなみに旧将軍家を継いだ家達は、将軍家菩提寺である寛永寺に葬られています。


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徳川将軍家の宗教1
2007/12/03 18:20 [Mon]
category:その他将軍家の話
文字色今回は、徳川将軍家の宗教の話です。

大樹寺徳川家が、まだ三河の小領主だった頃、松平家の菩提寺は大樹寺でした。
大樹寺は、浄土宗の寺で家康から五代前の安城城主松平親忠が創建したといわれています。(異説あり)
このことから、松平家の「家の宗教」は浄土宗だったと言えると思います。

増上寺徳川家が関東に移封された際に、江戸にあった浄土宗の増上寺が大樹寺との関係から徳川家の菩提寺となりました。
最初に増上寺に葬られた徳川家の人間は、二代将軍・秀忠の子の長丸だったと言われています。家康が征夷大将軍に任じられる前年の慶長7(1602)年のことでした。
その後、増上寺には、秀忠家宣家継家重家慶家茂の6人の将軍が葬られました。

寛永寺また、もう一つの菩提寺である寛永寺は、天台宗の寺で家綱綱吉吉宗家治家斉家定の6人の将軍が葬られました。
寛永寺は、天海により江戸城の鬼門(北東の方角)除けの祈願所として建立されました。
天海は、比叡山延暦寺で天台宗を学んだと言われており、比叡山が京都御所の鬼門除けであることを模して、寛永寺を鬼門除けとして山号を東叡山(東の比叡山)と命名したのです。

三代将軍・家光は、天海を父のように慕っており、自分の葬儀を天海創建の寛永寺で行うように命じて以来、寛永寺は祈願寺から菩提寺とされるようになりました。

このように徳川家の菩提寺は、浄土宗の芝増上寺と天台宗の上野寛永寺の2つあり、現代の感覚からすると違う宗教の寺を菩提寺とするのは不思議な感じがします。
ただ、他の大名家の例をみても江戸と国許にそれぞれ菩提寺を持っていることがむしろ、普通であり、また、宗派の違う寺を菩提寺とする例もあることから将軍家だけが例外ではないのかもしれません。

ところで歴代将軍15代のうち、増上寺にも寛永寺にも葬られていない将軍が3人います。
言うまでもなく家康は、他の将軍家とは別格で、神格化され、初め久能山に葬られた後、日光東照宮に移葬されました。
三代将軍・家光は、家康を慕う事、尋常ではなく、死後も家康のそばに眠る事を熱望したため日光山輪王寺に葬らました。

例外中の例外が15代将軍・慶喜です。
その話は、次回とします。


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吉宗の逸話3
2007/12/01 22:50 [Sat]
category:〔八代〕吉宗
 吉宗が鷹狩に出かけた時のこと、田の畦を歩いている時、糞桶があって、ひっくり返してしまい、衣服も汚れてしまった。

 吉宗は衣服を着替えた後、
 「この糞桶の持ち主を連れて来い。」と命じた。

 供奉の者はどうなることかと心配しながら、その農民を連れてきた。

 吉宗は、農民に次のように言ったという。
 「お前は田を肥やし、実を豊かにしようと、糞を買って苦労して担いできたのに、わしが誤って無駄にしてしまった。
 その代価として、わしの着ていたこの衣服をつかわそう。」

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吉宗の逸話2
2007/12/01 22:47 [Sat]
category:〔八代〕吉宗
 吉宗がまだ紀州で部屋住みだった青年期のこと。

 町を近習とともにお忍びで歩いていた時、偶然、商人の夫婦喧嘩を立ち聞きすることとなった。

 隣人が仲裁に入ったが殿様の言葉ならいざ知らず、隣人の言葉は聞かぬ、と言ったのを耳にした。

 翌日、吉宗は家来に「殿様でない吉宗では不足だろうが、仲良くするように。」と喧嘩していた夫婦に伝えさせた。

 夫婦は恐れ入って仲良く暮らすようになったとのことである。

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吉宗の逸話1
2007/12/01 22:42 [Sat]
category:〔八代〕吉宗
 吉宗がまだ源六と呼ばれていた少年時代の頃、父の紀州候光貞が自分の子4人を集めて刀のつばの入った箱を見せ、好きなものを与えようと言った。

 源六は希望を言わないので光貞が理由を聞くと、
 「兄上達が選んだ後で箱のまま全ていただきたいと思っていました。」と答えた。

 光貞は年に似ず肝が太いと喜び、望みの通り箱ごと与えた。
 源六は家に帰ってから家来に刀のつばを2つずつ分かち与えたという。 

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家継の逸話2
2007/12/01 20:33 [Sat]
category:〔七代〕家継
 日光輪王寺宮が登城して帰る際、深く頭を下げる宮に対して、家継は軽く会釈して見送った。

 その様子はとても自然で大人も及ばないほどの態度であったという。

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