徳川将軍家と大奥のブログ
十五代の将軍家と謎の多い大奥について語るブログです!
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御台所の居室
2008/01/27 22:28 [Sun]
category:大奥の話
今回は、篤姫が暮らすことになる大奥という場所についての話です。

大奥があった江戸城は、本丸のほか二ノ丸三ノ丸西丸から成っており、本丸は将軍が居城し、幕府の政庁としての機能を果たしていました。

二ノ丸以下は、時代により使われ方は違ってましたが、将軍世子大御所御台所将軍生母の住居として使用されていました。
大奥女中は、それぞれが将軍付、御台所付、将軍生母付などと所属が決まっており、主人が二ノ丸にいれば二の丸に詰めており、従って、本丸以外にも大奥が形成されていました。


御台所住居
本丸の大奥は、本丸御殿の一部を指します。

本丸御殿の広さは、一万一三七三坪(1845年造営の御殿)で、表向・中奥・大奥に三区分することができ、更に大奥の内部は御殿・長局・広敷という3つの区域がありました。

御殿には、将軍の大奥での寝所や御台所らの居室や奥女中の詰所があり、長局には、奥女中の住居があり、広敷は、別棟となっており、大奥の事務を行う男性職員が詰めていました。

「大奥」という名称は、表向に対して一番奥ということですが、大名家等では、「奥向」又は「奥御殿」などと呼称していました。

大奥内の構造は、現存する絵図が少ないため、詳しい事はわかっていないようですが、大奥内の構造が何度も変更されています。
本丸御殿自体が火事で何度も焼失・再建を繰り返しているせいもありますが住む人の都合もあると思います。大きな傾向として、時代とともに構造が複雑になっていく傾向があるようです。

上図は天保15(1844)年造営の大奥御殿のうち、御台所居室周辺図です。

御台所の通常の生活の場が「新御殿御上段」「御下段」「御休息」で、寝室が「御切形ノ間」です。「御化粧ノ間」が化粧道具の置き場、「御納戸」が更衣室兼化粧室です。

現在、本丸御殿の場所は、皇居東御苑となっており、大奥を偲ばせる建物は現存しませんが、一般公開されていますので是非、訪れてみてください。


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家定物語~篤姫が嫁いだ将軍(後編)
2008/01/19 20:38 [Sat]
category:〔十三代〕家定
篤姫が嫁いだ将軍・家定物語の後編です。

家定は、虚弱な体質であり、幕政をリードできるほどの資質を備えていなかったのは史実が証明するとおりです。

前回、ご紹介したとおり家定は、癇癖将軍とか芋公方などとあだ名されています。
家定には、何らかの体の障害があり、日常的に首を振ったり、手足が痙攣する体質であったことや饅頭やカステラを作ったり、豆を煮たり、芋をふかすことが好きだったためです。

このようなあだ名や逸話から家定の人間像は、知性に問題があって、子供のような事に熱中した子供同然、あるいは廃人のような将軍との印象を後世に与えています。

ところが、家定は、将軍としてアメリカ領事タウンゼント・ハリスの謁見を行った事で知られています。
幕臣がセットした舞台を演じただけという見方もできますが御側御用取次を勤めた竹本要斎の回顧談として次のような話があります。

「外国人などは畜生に近いものという時代に家定様には偏見がなく、外国の事情に通じていた外科医を手許に呼び寄せて、外国の事情を尋ね、得心のいかないことは更に幕府の通辞に調査を命じており、そのような事は前後の将軍にもなかったことである。」

次のような話もあります。
家定は、中奥の御山から、アメリカから贈られた高性能の望遠鏡で品川沖を眺め、ペリー艦隊の動静に心を悩ましていたと。

また、実際に家定は、幕府の武芸訓練機関である講武所にたびたび赴き、軍事調練や軍艦や大砲などの視察も行っている。

それでは、なぜ、家定の知性に問題のあるという評価が定着してしまったのでしょうか。
この評価の元となったのは「安政紀事」という本と言われています。著者は、内藤耻叟(ないとうちそう・元水戸藩士)。
私の蔵書にもありますが、内藤は「徳川十五代史」の著者としても有名で、後に帝国大学の教授になった人物ですが歴史学者の間では、記述に誤りの多い事も指摘されています。

家慶の時代から将軍職に嘱望されていた水戸家出身の慶喜を後継に指名せず、家定自身が慶喜嫌いであったため、もしかすると、元水戸藩士である内藤としては家定嫌いで殊更に厳しい記述となったのかもしれません。

家定は、安政3(1856)年12月18日、3度目の御台所・篤姫を迎えますが、安政5(1858)年7月6日に脚気衝心で薨去します。

平穏な時代であれば、家定も自分の人生を楽しみ、もう少し長生きも出来たのではないでしょうか。
ところが、時代は、家定に未曾有の外圧を与えます。

家定は、生まれながらに将軍になることを運命付けられて育ちました。
病弱な体と自分の能力の限界と闘い、絶望と孤独感に思い悩む事も多かったのではないでしょうか。

家定に、このような評価もあることを参考に大河ドラマ「篤姫」を見ていただきたいと思います。


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家定物語~篤姫が嫁いだ将軍(中篇)
2008/01/12 21:56 [Sat]
category:〔十三代〕家定
篤姫が嫁いだ将軍・家定物語の続編です。

将軍継嗣として西丸に入った天保12(1841)年の暮れ、家定は鷹司家(五摂家の一つ)から御台所を迎えます。

家定の最初の御台所となった任子(ただこ)は、将軍御台所となるべく、婚儀の10年前から江戸に下向し、準備を重ねて婚儀を迎えます。時に家定18歳、任子19歳。

任子との間には、子宝には恵まれませんでしたが夫婦仲が良く、任子は非常に美しい人で義父である家慶にも良く仕えたといわれていますが、任子の病死によって結婚生活も7年余りでピリオドを打ちます。

任子が没した翌年、家定は、同じ五摂家の一つである一条家から2人目の御台所を迎えます。名は秀子(ひでこ)。しかし、秀子は1年を待たず病死しており、どのような人物かは余り伝わっていません。

嘉永6(1853)年6月22日、父である十二代将軍・家慶が薨去します。
通常、将軍に実子がいる場合には、将軍位を子に引継ぎ、自らは、大御所として後見するのですが家慶・家定父子はそうではありませんでした。一説には、不仲説もあるようですが、むしろ、家定に子が授かる兆しもなく、家定自身病弱だったため、家慶も楽隠居する気にならなかったのが実情だとも思います。
ちなみに、家慶は家定の控えとして、水戸家から一橋家慶喜を送り込みます。

ともあれ、家慶の薨去に伴い、家定は30歳で将軍位を継ぐことになりますが、家慶が亡くなった同じ月にアメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦を率いて浦賀沖に現れます。
時代は、家定の将軍就任とともに幕末という激動の波に突入するのです。

少し長くなりそうなので、今回を中篇として3回構成とさせていただきます。
家定が癇癖将軍芋将軍など有難くないあだ名をつけられた裏側について、次回書かせていただきます。

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家定物語~篤姫が嫁いだ将軍(前編)
2008/01/08 23:12 [Tue]
category:〔十三代〕家定
篤姫が嫁いだ将軍・家定とは、どういった人物だったのでしょうか?
家定は、歴代将軍の中でも知られる事の少ない人物ですので、紹介してみたいと思います。

家定は、十二代将軍・家慶の第四子として、文政7(1824)年4月8日に生まれました。
幼名・政之助
5歳で元服し、名を家祥(いえさき)と改めます。

祖父の十一代将軍・家斉には記録に残るだけで53人の子がいましたが、家慶にも29人の子がいました。
そのうち、10歳以上成長したのは、家定と一橋家を継いだ慶昌だけで、慶昌も13歳で亡くなります。当時の乳児死亡率は、非常に高かったのですが、成人したのが29分の1というのは異常と言えます。

このように乳児死亡率の高かった理由は、女性が使う白粉が原因であったといわれます。
当時の白粉は、植物性と鉱物性があり、鉱物性の原料は水銀や鉛で江戸時代には鉛が主流でした。
特に上流階級に多かったのですが、女性は白粉を顔だけではなく胸から背中まで塗るため、塗っている本人だけではなく、母乳を与える乳児に深刻な鉛中毒を発症させました。
鉛中毒は、脳に深刻なダメージを与えることが知られており、家定にもその影響があったのではないかといわれています。

子供頃の家定は、非常に体が弱く、人前に出るのが苦手でしたが、兎にも角にも9歳で読書・手習をはじめ、13歳で具足召し始めの儀式、14歳で四書講読を終了しています。

祖父・家斉は将軍在位50年に及んだため、父の家慶が将軍職に就任したのは天保8(1837)年で家慶45歳、家定14歳の時でした。
家定は、天保12(1841)年に正式に将軍継嗣として西丸に移ります。

この頃の家定について、大奥女中の話が残っています。
「家定様には、御癇癖がありましたが、あまり困るような事はありませんでした。
ただ、首を振る癖があり、御能を舞われた時に癖が出なければよいがと家慶様が言ってあらせられましたが御癖も出ず、大変、満足そうでございました。
家慶様が御病気された時には、西丸から日々お出ましになり、ご看護され、ご自身でお粥を作られたのでございます。
また、家定様は医道にも大変詳しかったのでございます。」

家定には、廃人同様であったとか、子供のようであった、あるいは正常な判断ができなかったなどの評価がありますが・・・、皆さんは、どうお感じになったでしょうか?

この後、家定は将軍職を継ぎますが後半は次回に!


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篤姫が注目される理由
2008/01/05 00:10 [Sat]
category:篤姫(天璋院)
NHK大河ドラマ「篤姫」の初回放送日が迫ってきましたね。
前回に引き続き、篤姫について紹介します。

皆さんは、御台所を何人、ご存知でしょうか?
二代・秀忠の御台・お江与、六代・家宣の御台・近衛熙子(天英院)、十四代・家茂の御台・和宮、そして篤姫でしょうか。

それでは、なぜ、篤姫が小説や大河ドラマの主役となるほど注目されるのでしょうか?

一つには、前回書いたように他の御台所のほとんどが皇族・摂関家という将軍家に引けを取らない姫たちだったのに対して、18歳まで薩摩で育った島津藩主の支族に過ぎない姫が御台所になるという特異性にあります。

また、一橋慶喜を次期将軍家に押すという政治的な使命のもとに、大奥に送り込まれたということ。これも極めて、異例なことだと言えるでしょう。
篤姫がこの使命に、どの程度、忠実であったのか想像するしかありませんが、結果的には井伊直弼が大老に就任したことにより、実現しませんでした。何よりも、篤姫は、どうした理由か慶喜のことが嫌いであったと言われています。

そして、篤姫が歴史上に名を残す最も大きな理由は、幕府瓦解時に東征軍が迫りくる中で1千人ともいわれる女中を立ち退かせ、自身は和宮とともに徳川の人間として、徳川の家名を守るために尽力したことが挙げられます。

幕臣までが篤姫に江戸城退去を進めますが
「一歩もここを出ません。もし、無理にというのであれば自害して果てます。」
と篤姫は断固拒否したのです。

また、江戸城に向かってくる東征軍の実質的な総大将は東征大総督府下参謀・西郷隆盛でしたが、篤姫にとって家臣筋とも言える西郷に対して篤姫が送った書簡を最後にご紹介します。

「私が徳川家に嫁いだ以上は、当家の土となるのはもちろんですが、家定様がおられない以上は、亡き夫のため、徳川家の安全を祈るほかありません。
自分の生きている内に徳川家にもしものことがあれば、あの世で夫に面目が立たないと日夜、寝食も充分に取れず悲歎に暮れている事をどうぞ、お察し下さい。
徳川の家名が存続することをお許し願うことは、私一人の命を助けていただくことよりも重くありがたいことです。」


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なぜ、篤姫は御台所となったのか
2008/01/04 00:03 [Fri]
category:篤姫(天璋院)
このブログ初の大奥ネタです。
今年のNHK大河ドラマは、「篤姫」ですね。
今後、篤姫の周辺については何度か書いていくつもりですが、今回は篤姫がなぜ将軍家に嫁いだのかを簡単に紹介したいと思います。

大河を見る上での予備知識にしていただければ幸いです。

篤姫(敬子、天璋院)は、薩摩藩主一門の今和泉領主・島津忠剛の娘として生まれましたが、藩主・島津斉彬の養女となり、後に近衛家の養女となって十三代将軍・家定に嫁ぐことになります。

歴代将軍家の御台所は、四代以降、ほぼ皇族、摂関家から迎えられており、家定も鷹司家から姫を迎えていましたが病死し、次いで一条家から迎えた姫も病死してしまいます。
大奥の主である御台所が次々と変わるようでは秩序が保てません。そこで白羽の矢が立ったのが篤姫だったわけです。

関が原の戦いと幕末の歴史をみれば、薩摩藩の姫が将軍家御台所となるのは、少し不自然に思われますが、この頃の薩摩藩は少なくても政策的には親幕府だったのです。
実は家定の祖父である十一代将軍・家斉の御台所は、同じく薩摩藩の姫で茂姫(広大院)でした。
そして、茂姫は長命であり、成人こそしなかったものの2人の子を産んでいるため、大奥では、次の御台所は薩摩からとの要望が大きかったのです。

また、政治的にみれば、篤姫が生まれたのは天保6(1836)年、幕藩体制の矛盾が噴出し、激動の幕末期に突入する直前でした。
当時の筆頭老中・阿部正弘や薩摩藩主・島津斉彬らは、難局に耐えうる聡明な将軍家として次期将軍に一橋慶喜をと考えており、そのためには意を含ませた姫を大奥の主に送り込む事としたのです。


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将軍家の正月
2008/01/01 22:26 [Tue]
category:その他将軍家の話
新年明けましておめでとうございます。
今年が皆さんにとって幸多い年となりますように!

さてさて、今日は元旦ですから年始の将軍は、どのように過ごしていたかについて紹介したいと思います。

実は、正月三が日は、諸大名や旗本、医師、観世太夫などお目見え資格を持つ者が将軍に対する年始の御礼言上に押し寄せます。
将軍は、朝六ツ半(朝7時)から長い時間をかけて多くの人々の挨拶を受けなければならず、諸大名等にとっても早朝から登城して、緊張の時を待たなければなりません。
正月早々、大変あわただしいと言えます。

拝謁の順は、身分・家格によって3日に分けて行われます。
元旦は、まず将軍の私邸に当たる江戸城中奥の御座之間で将軍世子、御三卿の挨拶を受けます。
いわば、家長に対する家族の挨拶といえるでしょう。

次いで、将軍は公の場である表向の白書院に出御して御三家、前田家、松平(越前)家など身分・家格の高い順に独礼で拝謁を受けます。
独礼とは、将軍が上段之間に着座して下段に控える拝謁者一人一人の挨拶を受けることを言います。
その際でも、奏者番が拝謁者を披露して、将軍は「めでたい」などと声をかける程度でした。

白書院で独礼できるのは、四位以上の者であり独礼が終了すると、今度は大広間で五位以下の者の拝謁をまとめて立礼形式で行われます。
立礼は、将軍が大広間下段之間に立ち、下段之間に続く二之間、三之間に平伏する拝謁者の挨拶をまとめて受ける形式です。

このようにしても、たっぷり3日かかったと言うから江戸の町は正月から登城ラッシュでかなり騒がしかったのではないでしょうか。

ところで現在でも、皇室では正月三が日は、元旦の午前5時半から始まる四方拝に続き、歳旦祭、一般祝賀、元始祭と大変多忙な時間を過ごされています。


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