徳川将軍家と大奥のブログ
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家定は毒殺か?
2008/07/20 22:50 [Sun]
category:〔十三代〕家定
NHK大河「篤姫」では、家定が帰らぬ人となってしまいました。享年35歳。

家定の死を巡っては、当時から毒殺されたのではないかと噂が飛び交ったと言います。
家定が将軍職を務めたのは、嘉永6年(1853)11月23日から安政5年(1858)7月6日のわずか4年8ヶ月。篤姫とは1年半余りの結婚生活でした。

家定の死の前後の主な出来事を並べると次のとおりです。

安政5年(1858)4月21日
老中首座・堀田正睦、「福井藩主・松平慶永を大老に」と家定に進言するも
「大老ならば、家格、人物からみて井伊直弼をおいて他になし」と退けられる

安政5年(1858)4月23日
井伊直弼 大老に就任

安政5年(1858)5月1日
井伊直弼、新将軍に徳川慶福(家茂)内定の通達を出す

安政5年(1858)6月19日
幕府、勅許を得ぬまま「日米修好通商条約」調印

安政5年(1858)6月23日
一橋慶喜、無勅許の条約締結について井伊直弼を問責
堀田正睦、老中を罷免される

安政5年(1858)6月25日
徳川慶福、将軍継嗣に決定

安政5年(1858)7月3日
家定、重体に陥る

安政5年(1858)7月6日夕刻
家定薨去

安政5年(1858)8月8日
家定薨去を正式発表

何度か当ブログで触れてきた次期将軍を巡る一橋派と南紀派の争いは、慶喜と慶福(家茂)のどちらが将軍家にふさわしいかという問題よりも、むしろ雄藩による幕政改革派と従来型の譜代、徳川家臣による保守派の争いでした。
この争いも家定の死の直前3ヶ月前に井伊直弼が大老に就任することにより、一応の終止符が打たれました。
終止符と同時に用済みとばかりに家定の命が尽きたのです。


家定暗殺の黒幕として噂されたのは、徳川斉昭井伊直弼です。

斉昭は、慶喜の父であり、将軍継嗣に慶喜ではなく慶福を指名した家定に恨みを持って、奥医師を使って毒を盛ったとするものです。

直弼は、家定よりも13歳に過ぎない慶福の方が御しやすいと考えたのではないかということと、その後の豪腕ぶりをみると目的を達成するためには手段を選ばなかったのではないかということです。

私見ですが、水戸斉昭について言えば、勤皇精神と同じくらい徳川一族の重鎮としての誇りを抱いていた人物だと思っています。
クセがありましたが優れた人物で怒りに任せて、将軍暗殺を行うことは考えられません。
(参考 ⇒⇒⇒ 大奥の水戸嫌い

また、井伊直弼については確かに家定薨去の前後の出来事からも、実行できる立場にいたことからしても一番怪しいと思われました。
しかし、将軍の暗殺をするほどの大事を冒すためには、よほどの動機と利益がなくてはなりません。 そういうことからすると直弼についても暗殺の可能性は少ないと思います。


一般には家定の死因は、脚気衝心だと言われています。
脚気はビタミンB1不足から起こる病気で下肢のむくみやしびれなどの症状が現れ、やがて循環器に障害が起こり、心筋機能の低下により死に至る場合があります。(現在は、死に至る場合は非常に少ないと思われます)

脚気衝心は別名、江戸患いとも言われ白米を常用できる者に蔓延しました。
当時、身分が高い者に特にこの死因が多かったのです。

幕末に書かれた「昨事紀事」には、家定の身に起こった乏尿、下肢浮腫、呼吸障害などの脚気衝心の症状が記録されています。
家定の病状が悪化すると幕府は、これまでの蘭方禁止令を解き、名が高かった蘭方医を奥医師に登用して家定の治療に当てるなどの措置を取りましたが、家定が回復することはありませんでした。

この病気が夏に悪化することを考え合わせると、持病の脚気で病死したという可能性が高いのではないでしょうか。
そして、家定暗殺説は、一橋派と南紀派の中傷合戦の延長だったのではないかと思います。


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七男でも将軍候補とされた理由
2008/07/05 00:33 [Sat]
category:〔十五代〕慶喜
「水戸斉昭の七男である慶喜が兄たちを飛び越えて将軍候補とされたのは何故ですか?」
という質問をいただきましたので今回は、この辺の事情について触れてみたいと思います。

慶喜の父・斉昭は、子沢山で子供たちに合理的でユニークな名前をつけました。
次男であれば二郎麿、三男であれば三郎麿、十男から十九男には余○麿、二十男から二十二男には二十○麿です。

長男だけは鶴千代麿と名がつけられました。後に水戸藩十代藩主となった慶篤(よしあつ)です。
この幼名は藩祖・頼房の幼名・鶴千代に由来するものです。

七郎麿(慶喜)が将軍候補含みで一橋家の養子となったのは、弘化4(1847)年8月1日でしたが兄である慶篤は既に藩主となっていました。
直接、将軍後嗣で江戸城西ノ丸に入るのであれば、綱吉家宣吉宗がそうであったように藩主である慶篤が養子となるのが普通ですが、一橋家への養子ですから次男以下ということになります。

二郎麿、三郎麿、四郎麿、六郎麿は早世しており、慶篤を除く慶喜の兄は五郎麿だけでした。
五郎麿は、慶喜が一橋家に入る時には水戸家に控えていましたが、嘉永3(1850)年鳥取藩32万5千石の藩主が嗣子がいないまま没したため、幕命によりその養子となっています。

それでは何故、一橋家の養子に入ったのが五郎麿ではなく、七郎麿であったのか。
本人の資質という面を除いても決定的な理由がありました。
それは、長男・慶篤と慶喜のみが斉昭の正室・登美宮吉子(とみのみやよしこ)の子供であったからです。

吉子は、有栖川宮織仁親王の九女で高貴の出身であるにもかかわらず、水戸家の奥向きを仕切るだけではなく表向きにも影響力を持った賢夫人でした。
そして、吉子の姉は、12代将軍・家慶の御台所・楽宮喬子(さざのみやたかこ)だったのです。

14代将軍に慶喜ではなく慶福(家茂)を推す井伊直弼は、宮家出身で御台所の妹でありながら政治向きにも発言力のある吉子の存在を非常に気にしていたといいます。


また、有栖川宮の血を引いていることを誇りにしていたという慶喜でしたが、時が経ち、朝敵となった慶喜を討伐するために江戸に進軍したのは皮肉な事に有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)東征大総督に戴く東征軍だったのです。

慶喜にとっても皮肉な運命でしたが、14代将軍・家茂の御台所・和宮の元婚約者も他ならぬ有栖川宮熾仁親王だったのです。

蛇足ながら、東征軍で有栖川宮熾仁親王の下、参謀を務めたのは西郷隆盛でしたが、明治10(1877)年西南戦争で西郷を討つために差し向けられた鹿児島県逆徒征討軍の総督はまたしても有栖川宮熾仁親王だったのです。



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