徳川将軍家と大奥のブログ
十五代の将軍家と謎の多い大奥について語るブログです!
スポンサードリンク

プロフィール

seisyo3

Author:seisyo3
「武士の時代」の管理人・清正です。
よろしくおねがいします。
武士の時代
アラフィフのクラウドな気分
tyukamanをフォローしましょう

サイトマップ

全ての記事を表示する

Tree-CATEGORY

リンク

このブログをリンクに追加する

最近の記事+コメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

管理人へメール

あなたの名前とメルアド、タイトル、内容を入力して確認ボタンを押すと管理人に送信されます。

名前:
メール:
件名:
本文:

RSSリンク

はじめに


   このブログは、15人の徳川将軍家と大奥の周辺についてのブログです。

   本館HPは   ⇒ 武士の時代
   歴史とは関係ないですが ・・・ アラフィフのクラウドな気分
  歴史ブログ集はこちら >>> 歴史ブログ 江戸時代

スポンサーサイト
--/--/-- --:-- [--]
category:スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

 │ 
なぜ、篤姫は御台所となったのか
2008/01/04 00:03 [Fri]
category:篤姫(天璋院)
このブログ初の大奥ネタです。
今年のNHK大河ドラマは、「篤姫」ですね。
今後、篤姫の周辺については何度か書いていくつもりですが、今回は篤姫がなぜ将軍家に嫁いだのかを簡単に紹介したいと思います。

大河を見る上での予備知識にしていただければ幸いです。

篤姫(敬子、天璋院)は、薩摩藩主一門の今和泉領主・島津忠剛の娘として生まれましたが、藩主・島津斉彬の養女となり、後に近衛家の養女となって十三代将軍・家定に嫁ぐことになります。

歴代将軍家の御台所は、四代以降、ほぼ皇族、摂関家から迎えられており、家定も鷹司家から姫を迎えていましたが病死し、次いで一条家から迎えた姫も病死してしまいます。
大奥の主である御台所が次々と変わるようでは秩序が保てません。そこで白羽の矢が立ったのが篤姫だったわけです。

関が原の戦いと幕末の歴史をみれば、薩摩藩の姫が将軍家御台所となるのは、少し不自然に思われますが、この頃の薩摩藩は少なくても政策的には親幕府だったのです。
実は家定の祖父である十一代将軍・家斉の御台所は、同じく薩摩藩の姫で茂姫(広大院)でした。
そして、茂姫は長命であり、成人こそしなかったものの2人の子を産んでいるため、大奥では、次の御台所は薩摩からとの要望が大きかったのです。

また、政治的にみれば、篤姫が生まれたのは天保6(1836)年、幕藩体制の矛盾が噴出し、激動の幕末期に突入する直前でした。
当時の筆頭老中・阿部正弘や薩摩藩主・島津斉彬らは、難局に耐えうる聡明な将軍家として次期将軍に一橋慶喜をと考えており、そのためには意を含ませた姫を大奥の主に送り込む事としたのです。


にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
上のバナーをクリックしていただくとこのブログのランキングが上がります。
応援お願いします。
スポンサーサイト

テーマ:歴史上の人物 - ジャンル:学問・文化・芸術

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://seisyonet.blog34.fc2.com/tb.php/32-464bc85b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
絶対おすすめ!

管理人の所蔵本のうち、価値ある本としておすすめする本です

スポンサードリンク

アンケートサイト

gooリサーチモニターに登録!

マクロミルへ登録

ブログランキング

にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
 クリックして応援お願いします。

アフィリエイト

アフィリエイトならリンクシェア

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ご訪問者

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。