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家康の遺言とその周辺
2007/11/30 17:20 [Fri]
category:〔初代〕家康
「臨終したならば、体を久能山に納め、葬礼を増上寺に申し付け、位牌は三河の大樹寺にたて、一周忌が過ぎて以後、日光山に小さな堂を建て、勧進するよう。八州の鎮守になろう。」
有名な家康の遺言です。

金地院崇伝の日記である「本光国師日記」によれば、家康は死の半月ほど前の元和2(1616)年4月2日、枕元に本多正純、金地院崇伝、南海坊天海の3人を呼んで死後の事について指示を与えています。また、4月6日には増上寺存応大樹寺魯道も家康に招かれており、彼らにも何らかの指示があったものと思われます。

4月17日巳の刻(午前十時)、駿府城で家康は永眠したとされていますが、それ以前、14日頃にはすでに亡くなっていたという説もあります。

家康の遺骸は、その日の夜のうちに久能城に移され、神竜院梵舜の指揮のもとに墓が造営されて19日には、梵舜の奉じる唯一宗源神道により埋葬式が行われました。
その後、増上寺にも家康の霊廟が造営されます。
法号は「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」

ここまで書いているとずいぶん多くの宗教家の名前が出てきます。
家康の帰依した宗教は何だったのでしょう?

戦場の家康の本陣には「厭離穢土、欣求浄土」」(えんりえどごんぐじょうど)という浄土宗の念仏が書かれた軍旗が翻っていました。また、遺言にもある三河の松平家菩提寺である大樹寺、将軍家菩提寺となった増上寺も浄土宗です。

家康の懐刀として方広寺大仏殿の鐘銘事件で豊臣家を追い詰め、伴天連追放令、寺院法度、公家諸法度の制定にも関与、黒衣の宰相と恐れられた金地院崇伝は臨済宗
同じく黒衣の宰相と呼ばれ、比叡山、日光、神田神社、寛永寺などを再興・創建するなど将軍家三代に渡り、主に宗教面で絶大な力を発揮した天海は天台宗
豊臣時代から秀吉はもちろん、前田家などにも絶大な信仰を得、家康もまた深く信仰していた豊国神社別当の梵舜は吉田神道

こう見てくると家康は、一つの宗教に固執してないように見えます。
浄土宗・臨済宗・天台宗・神道などいろんな宗教を学びながらも、政治家として宗教界のバランスを考慮していたことが大きいのだと思います。

家康の遺言とその周辺、まだ続きがありますが、それは次回。

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