徳川将軍家と大奥のブログ
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徳川将軍家の宗教2
2007/12/03 18:37 [Mon]
category:その他将軍家の話
徳川将軍家の宗教の話の続きです。

歴代将軍は、家康、家光、慶喜を例外として死後、徳川家菩提寺である芝増上寺と上野寛永寺に葬られました。
今回は、慶喜の話です。

慶喜屋敷跡慶喜は、大政奉還、鳥羽伏見の戦いを経て謹慎生活に入り、旧徳川将軍家は田安家達が16代を継ぎ、慶喜とその一族は別家扱いとなりました。
慶喜は、静岡、後には東京で明治・大正と長い余生を送り、天寿をまっとうしました。

慶喜の墓は、東京都台東区の谷中墓地神式によって葬られました。
旧徳川将軍家と別家となったため、その菩提寺に葬られることはなかったのですが、神式によるのは慶喜の指示であったと言われています。

なぜ、仏式でなく神式だったのでしょうか。
幕末の動乱は、勤皇 Vs 佐幕の図式で語られますが、当の孝明天皇は幕府から政権を取り戻すことは全く望んでおらず、慶喜も勤皇の総本山である水戸家の出身で天皇を敬う事に関しては、将軍となってからも変わりませんでした。

また、慶喜は後に名誉回復がなされ、公爵が授けられました。
このことは慶喜に勤皇の思いをより強くさせたことは容易に想像できます。

それと幕末から吹き荒れていた廃仏毀釈運動が影響していたと思われます。
明治新政府は、神道を国教として神と仏を分離する政策をとりましたが、副作用として仏教が弾圧される結果を引き起こし、華族の墓は、仏式から神式に変更されました。

このような事情から慶喜は、将軍家菩提寺ではなく、また仏式でもないとという形で葬られたのです。
ちなみに旧将軍家を継いだ家達は、将軍家菩提寺である寛永寺に葬られています。


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