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慶喜、恭順の理由3
2008/04/29 22:57 [Tue]
category:〔十五代〕慶喜
薩摩藩邸焼き討ち事件は、慶喜にとって痛恨事でした。

武家政権の擁護者でもあった孝明天皇も今はなく、薩長側が明治天皇を擁している現状では、幕府側から拳を下ろすことは朝敵となる可能性が非常に高かったのです。
慶喜の敵は、朝廷ではなく薩長勢力でなければならなかったのです。
だからこそ、幕軍を京都から撤退させ、軍事力を維持したままで政治力に訴える戦略で巻き返しを図っており、前回述べたように着々と成果を挙げていたのです。

ですが、江戸の幕府は慶喜に対して総じて冷ややかでした。
もともと、水戸斉昭の子ということで大奥から敬遠され、朝廷の幕政改革要求により将軍後見職に就任。朝廷の求めによって朝議参預禁裏御守衛総督の職を務めた慶喜は、将軍となっても幕府の中では浮いた存在となっており、求心力がありませんでした。

薩摩藩邸焼き討ち事件によって、不満が鬱積した大坂城内の将兵たちは、次は自分たちの出番だといきり立ちました。

慶喜自身、後にこの時の事を次のように述べています。

「大坂城内は上下を問わず暴発寸前の様子だった。制することなどできるはずもなく、会津・桑名・旗本の者たちは『この好機会に十分な兵力をもって入京し、天皇の周りを清めなければならない』と主張し、薩摩を討つ事に同意しなければ、どんなことを仕出かすかわからなかった。」

この言葉は、将として責任を部下に押し付けるものとして批判されます。
たとえ、事実であっても言葉に出す事は褒められたものではありません。ただ、恐らくは慶喜としても抗し難い情勢だったのだろうと思います。

慶応4(1868)年1月3日~6日、鳥羽街道・伏見街道で薩長連合軍と幕軍が衝突します。
幕軍は一万五千薩長軍は五千、幕軍は数において圧倒していました。
また、幕軍の装備が旧式であったため火力において圧倒されたという事をよく指摘されますが、実は幕軍の半数を占める幕府歩兵隊の主力銃は薩長軍と同じミニェー銃で、幕軍の精鋭である歩兵伝習隊は、シャスポー銃という最新鋭の銃を装備していました。

では、敗因は何か?

後に慶喜が語っているように幕軍には統一された戦略がなかったことによります。
幕軍は鳥羽・伏見だけではなく、竹田街道・西国街道などにも軍勢を向けるべきでした。
古来より京には七つ口があり、軍事的には攻めるに易く、守るに難い地なのです。
幕軍は数の優位を活かすことが出来ませんでした。
また、幕末の動乱で戦いなれた薩長軍が近代的な戦術・戦略の面で幕軍を凌駕していた事も大きな要因でした。

1月4日午後、薩長軍に錦旗が掲げられた時、薩長軍は官軍と認識され、幕軍は賊軍となったのです。
慶喜は後に語ります。

「悔やまれるのは、朝廷に対して刃向かう意思は露ほどもなかったのに、誤って賊名を負うに至ったことである。最初、例え家臣の刃に斃れるとも、命の限り会津・桑名を諭して帰国していれば、事ここに至らなかったのに、我が命令を用いられない腹立たしさに、如何様にも勝手にせよ、と言い放った事は一生の不覚であった」

将兵を残したまま、大坂城を脱出した慶喜の身勝手な行動のわけ、身勝手な理由であるけれど本音が出ている言葉ではないでしょうか。

水戸家に生まれ、朝廷と深い関わりの中で育った慶喜にとって、賊名を被った時、ただただ、驚愕して恭順謹慎するほかなかったのです。


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この記事に対するコメント
【 承認待ちコメント 】
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2008/05/01 21:49
| # [ 編集 ]

【 こんばんは 】
清正さん、こんばんは~
たいへんくわしいお話を聞かせていただいて、勉強になりました~

>幕軍には統一された戦略がなかった・・・
この時、薩長軍の指揮は大村益次郎がとっていたと聞きましたが、幕府には彼に匹敵するような人物がいなかったのでしょうか?

それとも、もう誰が何をしても、無理なくらい兵たちの気持ちが異常なところにいってしまっていたという事なのでしょうか?

この時、幕府側にもう少しの冷静さがあったら、未来は変わっていたのかも知れませんね。
2008/05/03 00:50
URL | indoor-mama #- [ 編集 ]

【 】
>indoor-mamaさん

>幕府には彼に匹敵するような人物がいなかったのでしょうか?

鳥羽伏見では、大村益次郎は指揮をとっていなかったようです。
幕府側も人物がいなかったわけではなかったのですが、特に指揮官クラスが実戦経験に乏しかったといわれています。

何より、幕軍が大挙して京を目指せば、薩長軍は退却するほかないだろうと考えていた事が敗れた最大の原因だと思います。
2008/05/20 19:35
URL | 清正 #- [ 編集 ]


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