徳川将軍家と大奥のブログ
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七男でも将軍候補とされた理由
2008/07/05 00:33 [Sat]
category:〔十五代〕慶喜
「水戸斉昭の七男である慶喜が兄たちを飛び越えて将軍候補とされたのは何故ですか?」
という質問をいただきましたので今回は、この辺の事情について触れてみたいと思います。

慶喜の父・斉昭は、子沢山で子供たちに合理的でユニークな名前をつけました。
次男であれば二郎麿、三男であれば三郎麿、十男から十九男には余○麿、二十男から二十二男には二十○麿です。

長男だけは鶴千代麿と名がつけられました。後に水戸藩十代藩主となった慶篤(よしあつ)です。
この幼名は藩祖・頼房の幼名・鶴千代に由来するものです。

七郎麿(慶喜)が将軍候補含みで一橋家の養子となったのは、弘化4(1847)年8月1日でしたが兄である慶篤は既に藩主となっていました。
直接、将軍後嗣で江戸城西ノ丸に入るのであれば、綱吉家宣吉宗がそうであったように藩主である慶篤が養子となるのが普通ですが、一橋家への養子ですから次男以下ということになります。

二郎麿、三郎麿、四郎麿、六郎麿は早世しており、慶篤を除く慶喜の兄は五郎麿だけでした。
五郎麿は、慶喜が一橋家に入る時には水戸家に控えていましたが、嘉永3(1850)年鳥取藩32万5千石の藩主が嗣子がいないまま没したため、幕命によりその養子となっています。

それでは何故、一橋家の養子に入ったのが五郎麿ではなく、七郎麿であったのか。
本人の資質という面を除いても決定的な理由がありました。
それは、長男・慶篤と慶喜のみが斉昭の正室・登美宮吉子(とみのみやよしこ)の子供であったからです。

吉子は、有栖川宮織仁親王の九女で高貴の出身であるにもかかわらず、水戸家の奥向きを仕切るだけではなく表向きにも影響力を持った賢夫人でした。
そして、吉子の姉は、12代将軍・家慶の御台所・楽宮喬子(さざのみやたかこ)だったのです。

14代将軍に慶喜ではなく慶福(家茂)を推す井伊直弼は、宮家出身で御台所の妹でありながら政治向きにも発言力のある吉子の存在を非常に気にしていたといいます。


また、有栖川宮の血を引いていることを誇りにしていたという慶喜でしたが、時が経ち、朝敵となった慶喜を討伐するために江戸に進軍したのは皮肉な事に有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)東征大総督に戴く東征軍だったのです。

慶喜にとっても皮肉な運命でしたが、14代将軍・家茂の御台所・和宮の元婚約者も他ならぬ有栖川宮熾仁親王だったのです。

蛇足ながら、東征軍で有栖川宮熾仁親王の下、参謀を務めたのは西郷隆盛でしたが、明治10(1877)年西南戦争で西郷を討つために差し向けられた鹿児島県逆徒征討軍の総督はまたしても有栖川宮熾仁親王だったのです。



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この記事に対するコメント
【 】
詳しいご説明有難うございました。七男と言っても兄たちが夭逝してたから実質三男みたいなモンですね。鳥取に兄が養子入りしてたんですね。鳥取に近い町に住んでるのに知りませんでした。さて、今回ここで色々と教えて頂き僕なりに考えてみたんですが、本寿院が慶喜を嫌ったのは、慶喜の母が家慶の正室の妹だったと言うのも有るんじゃないでしょうか。本寿院と家慶の正室の間に確執が有ったかどうかは知りませんが、慶喜が将軍になると、慶喜の母は将軍生母となるわけで、家慶の側室だった本寿院にしたら正室の妹が大奥に入って来るような事が有れば前将軍の生母と言えど、出自の面からも前々将軍との関わりの面からも慶喜の母の風下に立たされるのは必定で有ろうことは想像に難くないので、そこで女の嫉妬心だとか虚栄心から慶喜の将軍継嗣に難色を示したと推測してみたんですが、間違ってますでしょうか。
2008/07/08 17:51
URL | マー君 #- [ 編集 ]

【 】
マー君さん、こんばんは
コメントいただきありがとうございます。

家慶の時代の正室と側室(本寿院)との確執に注目されたわけですね。
理由の一つとして十分ありえることではないでしょうか。

大河ドラマでは、家定と篤姫の心の交流を描きすぎるがあまり、実は家定自身が慶喜を嫌っていたという視点が抜けている感じがします。
2008/07/08 23:53
URL | 清正 #- [ 編集 ]

【 】
慶福(家茂)&慶喜の事が分かってきたところで、次の質問を致します。当時の徳川家一門には、慶福(家茂)&慶喜…この二人以外に次期将軍候補は居なかったんですか?歴史の表舞台に名が出てくるのは、この二人だけですが、彼ら以外に候補として名が挙がった人って居なかったんでしょうか?例えば御三卿筆頭の田安家だとか同じく御三卿の清水家、或いは御三家筆頭の尾張徳川家などには将軍候補は居なかったのでしょうか?
2008/07/11 01:20
URL | マー君 #- [ 編集 ]

【 慶喜と慶福以外に対抗馬がいなかったか? 】
マー君さん、こんばんは
コメント承認が遅くなり申し訳ありません。

週一本の記事を自分でノルマとしているのですが、なかなか仕事の関係で時間がとれず、先週は飛ばしてしまいました(><;
時間がない事情もご理解ください。
質問にも丁寧にお答えしたいのですが、申し訳ありません。

簡単にお答えしますと、すでに12代家慶の時代に七郎麿(慶喜)は将軍候補として名が挙がっていました。何故かというと家定が病弱であったことや、本文に書いたとおり、家慶の御台所と慶喜の母が姉妹だった関係が大きかったと思われますが、家慶に大層、気に入られていたからです。

慶福は、慶喜の対抗馬として名が挙がりました。何故かというと家定の従兄弟にあたり徳川家の中では、最も血筋が近かったということです。

当然、御三家、御三卿(一時的に当主がいない場合もあった)に人がいなかったわけではありませんが、消去法ではなく、最初から2人に絞られていたのが実情であったと思われます。
2008/07/19 22:35
URL | 清正 #- [ 編集 ]


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