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井伊直弼という人・その2
2008/08/31 11:31 [Sun]
category:その他
前回に引き続き、井伊直弼についてです。

直弼が大老として、表舞台に登場してから、桜田門外の変で斃れるまでわずか2年弱。
直弼はなぜ、開国に踏み切ったのでしょうか?
直弼の残したものとは何だったのでしょうか?

NHK大河「篤姫」では、天璋院に、
「井伊大老は、やり方はともかく、信念があった。」
と語らせています。
天璋院が実際にそのような評価をしていたかは不明ですが、それはどういうことだったのでしょうか?


【開国と攘夷の狭間】

前回も紹介しましたが、幕府は諸外国からの開国要求に悩まされていました。
幕府の祖法であるから鎖国政策を変更できないというよりは、武力を背景とした開国要求に征夷大将軍を戴く幕府の体面上、承認しにくいというのが本音だったような気がします。

そして、何より攘夷といっても日本に諸外国を打ち払う実力がないのは、妄信的な外国嫌いでもない限り誰の目にも明らかでした。
ただ、漠然とした諸外国への怖れや政治的思惑などから一部で攘夷を唱えるに過ぎなかったのです。

直弼は結果的に日本に開国をもたらしますが、心情的には攘夷派に近く、現実的な選択として開国に踏み切ったのでした。

実は幕府の条約締結の評定では、大勢は条約締結もやむなしでしたが、直弼と若年寄・本多越中守だけが締結反対でした。

ハリスとの交渉役となっていた井上清直岩瀬忠震(ただなり)に対して、直弼は
「無勅許(天皇の許しのないまま)での条約締結はまかりならぬ」
と言い渡しはしましたが、井上の
「是非に及ばざるときは調印をお許し下されましょうや」
という問いに対して、
「その場合はやむをえぬ」と答え、消極的承認を与えたのでした。

直弼の真意は複雑で開国した後に実力を備えて鎖国に復帰することを志向していました。
ただ、直弼は妄信的な西洋嫌いであったわけではなく、直弼の遺品の中からは大量の洋書や世界地図などがあったことからも伺えます。

ともかく、このことにより、無勅許のまま神奈川、長崎、函館、新潟、兵庫の5港が開港され、続けてイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも同じような条約(安政の五カ国条約)を締結しました。

誰もが決断も責任もとれず、右往左往していた条約締結問題は、無勅許締結という火種を残したままではありましたが大老・井伊直弼という求心力により一応の決着をみたのでした。


【直弼の信念】

条約締結を知った一橋慶喜がいち早く、直弼に対して無勅許の非を責めました。
次いで松平慶永水戸斉昭水戸慶篤尾張慶恕(よしくみ)らも不時登城という強引な手段により直弼に詰め寄りました。

御三家、御三卿、御家門がこのように揃って、幕閣に対して非を唱えるのは前代未聞のことでした。
また、開国に強い拒否反応を示す孝明天皇は、非常に逆鱗し、譲位の意思を示しました。

仮に、このような情勢で前将軍の家定が健在であれば、あるいは直弼は引責罷免されたかもしれません。
しかし、将軍・家茂はいまだ若く、実力派老中であった堀田正睦松平忠固は、無勅許による条約締結に積極的であったとの理由から、直弼によって登城停止、次いで罷免されていました。(もちろん、家茂の名において)

直弼は井伊家を継ぎ、大老という重職を担った時から、衰えた幕府の権威を取り戻すことに全力を注ぎました。
それが井伊家に課せられた責任であり、大老の責務であるという信念を強く持っていたのです。
直弼自身は勤皇の志もありましたが、政(まつりごと)は幕府の専権事項である事を信じて疑わなかったのです。


【直弼の限界】

直弼は、このように自らの信念に従って幕政をリードします。
反面で信念の裏返しか、性格的なものか、自分の意にそぐわない者を徹底的に排除するという事を行います。
上に立つ者は、使いずらくとも下の者の才能を生かし、組織のパフォーマンスを発揮することが器量であるのですが、直弼にはその点が大きく欠けていたのでした。

排除された者は、攘夷派、一橋派などが中心でしたが、中には理由が不明な者もいます。
そして、その中には、残念なことに開明的で気概識見のある才能豊かな幕僚が多く含まれていたのです。

川路聖謨は西の丸留守居役に左遷後、隠居・慎み。
岩瀬忠震は作事奉行に左遷後、永蟄居。
水野忠徳は箱館奉行に左遷。
永井尚志は軍艦奉行に転出後、永蟄居。
井上清直は小普請奉行に左遷。
大久保忠寛は罷免。

このように、歴史的に見た場合に、直弼の政治手腕は大きく評価される一方で、結果的には幕府内の人材をなくしたと同時に、混乱を招き、幕府の衰亡を早めたともいえるのです。

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