徳川将軍家と大奥のブログ
十五代の将軍家と謎の多い大奥について語るブログです!
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はじめに


   このブログは、15人の徳川将軍家と大奥の周辺についてのブログです。
   大河ドラマ「篤姫」についても力を入れています。
   「歴史の楽しさ」を伝えることができ、私も歴史という趣味を深めることができたらと思って
 います。

   歴史ブログ集はこちら >>> 歴史ブログ 江戸時代

大奥の水戸嫌い
2008/06/15 15:34 [Sun]
category:大奥の話
NHK大河「篤姫」について、indoor-mamaさん(今日は何の日?徒然日記)から

「一橋派と南紀派の争いで大奥が慶福(家茂)を推す理由として水戸嫌いが強調されているが、水戸と大奥の間に何かモメる原因があったのでしょうか」
という趣旨のコメントをいただきました。

実は、この点は重要な視点であるにも関わらず、あまり取り上げられることがないような気がします。

一般には、慶喜の父である水戸斉昭の女グセの悪さと大奥にまで口を出すアクの強さが特に家定将軍生母の本寿院に毛嫌いされたと言われています。


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女グセの悪さという点で江戸学の権威である三田村鴛魚は次のような事件を紹介しています。

斉昭の兄である斉脩(なりのぶ)の正室・峯姫(11代将軍・家斉の娘)に大奥から従った絶世の美女、唐橋に斉昭が手を出し、懐妊させてしまいました。

唐橋は、上臈年寄いう大奥最上位の位であったから将軍の命令でも、寵愛を受けることがないのが通例であったのに手を出してしまった。


    大奥の職制については ⇒⇒⇒ こちら


しかも、12代将軍・家慶が将軍世子であった頃、この唐橋に求愛したが振られていたというオマケまで付いていました。

この斉昭の手クセの悪さに対し、表向きは水戸藩の天保の改革が行き過ぎたという口実のもとに隠居・蟄居に処せられたといいます。

以上、いかにも裏史的で斉昭らしいエピソードではありますが、そのような事実があったとしても、その事がどれほどの影響を与えたのかは疑問があると思っています。


斉昭は、攘夷を声高に唱え、気随驕慢な人物像ばかりが一人歩きしている感があります。
しかし、斉昭は藩主に就くと同時に身分に囚われない人材登用、自ら質素倹約の範を示し、租税の合理化、藩校弘道館や郷校の建設、農村救済など藩政改革に成功を納めています。
この水戸藩の天保の改革は、幕府の天保の改革や他藩の藩政改革の先駆けとなったものでした。
また、斉昭は開国改革政策を推進する阿部老中の協力者でもありました。

少し、テーマからずれてしまいましたが、本寿院をはじめとする大奥にとっては、御三家の当主という家格と実績を後ろ盾として歯に絹を着せず、幕政に口を出すだけではなく大奥に質素倹約まで迫る斉昭が嫌悪されたのは当然だったのでしょう。

また、少し遡りますが12代将軍・家慶は、慶喜を気に入って将軍世子の扱いをしようとして老中に止められたこともあるほどでしたが、このことが家定生母である本寿院の水戸嫌いの元凶だったのかもしれません。


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一橋慶喜と紀伊慶福の将軍家後継争い
2008/06/08 10:28 [Sun]
category:その他将軍家の話
NHK大河「篤姫」では、いよいよ一橋家当主・慶喜(平岳大)と紀州藩主・慶福(松田翔太)との将軍家後継争いが始まるようです。

一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)は、後の十五代将軍・徳川慶喜で、徳川慶福(とくがわ よしとみ)は十四代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)です。

一橋慶喜を推していたのは、老中・阿部正弘、実父・徳川斉昭、、越前藩主・松平慶永、尾張藩主・徳川慶勝、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信などそうそうたる顔ぶれで一般に一橋派と言われます。

一橋派は、譜代大名が牛耳ってきた幕政の改革なくしては、日本が立ち行かなくなるという危機感を抱いている人たちでした。

従来は、外様大名が幕政改革を目指すことなどはありえませんでしたが、このような流れは、12代将軍・家慶の時代の水野忠邦による天保の改革が失敗したことによる幕政に対する不満が大きく影響していました。
このことが、前回ご紹介した阿部老中が幕閣以外から広く意見を求めるという前代未聞の政治にも繋がっていきました。


一方、慶福を推したのは、井伊直弼を筆頭とする溜間詰めの大名や老中・松平忠固、紀州徳川家付家老・水野忠央、御側御用取次・平岡道弘などが中心で一般に南紀派と言われます。

この中では、水野忠央の働きは目覚しく、大奥に入念な工作を行い、将軍生母・本寿院や年寄・滝山など完全に慶福派に仕上げます。
大奥の意向が将軍・家定に与えた影響は大きかったと言われています。

これらの人々は、幕府の秩序を乱す一橋派の動きに反感を持つ人たちでした。
幕政は、将軍を戴いた老中以下が行うものであり、次期将軍は現将軍との血筋を考えれば慶福以外にありえないと考えていたのです(慶福は、家定の従兄弟)。


このように一橋派は改革派、南紀派は保守派であり、将軍家後継争いというより本質は、政争でした。当事者の慶喜と慶福の思想信条には関係なく、また、2人が将軍職を望んで対立したものではなかったのです。
また、両派が、互いに朝廷の信認を求めたところから、ますます混乱を深めていったのです。

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老中・阿部正弘
2008/06/01 20:33 [Sun]
category:その他
NHK大河「篤姫」では、露出度のわりには、いま一つ存在感が見えてこない老中阿部正弘(草刈正雄)ですが、今日の放送では39歳という若さで死んでしまいます。

老中(ろうじゅう)とは ⇒⇒⇒ 幕府の面白役職

幕末史の舞台には実に多くの人物が登場します。
その中でも、彼こそが幕末という時代の幕を切って落とした人物であるという点で非常に重要な人物なのです。

阿部正弘の時代は、内外に非常に困難な問題を抱えていました。
内政・・・天保時代の大飢饉により、幕府も諸藩も一気に財政破綻レベルにまで落ち込み、農民の年貢に頼る制度に限界をきたしていました。

外政・・・欧米列強による植民地政策の波が日本にも押し寄せ、幕府の祖法である鎖国政策の転換が求められていました。

阿部正弘は、弱冠25歳という若さで老中に就任し、12代・家慶13代・家定に仕え、未曾有の困難な時局の舵取りを担うこととなったのです。
阿部は、良い意味でも、後に禍根を残した点でも異色の人物でした。

阿部は、自身が徳川譜代名門の出でありながら、出身・身分に囚われず、有能な人物を抜擢しました。主な人物としては、川路聖謨水野忠徳筒井政憲堀利煕永井尚志大久保忠寛岩瀬忠震竹内保徳井上清直江川太郎左衛門高島秋帆勝海舟戸田氏栄松平近直ジョン万次郎など。

また、諸外国の開国要求に対しては、朝廷に奏聞するという前代未聞の方策を採ります。
朝廷の政治への口出しに対しては、幕府が強く規制を加えていましたから、驚くべきことでした。

そして、すべての大名、旗本、陪臣に至るまで広く意見を求めるという事も行いました。
幕政は、譜代の大名、旗本が行うものであり、外様大名や陪臣などに意見を求めるというのは考えられないことでした。

阿部は、調整能力、バランス能力に優れ、当初は攘夷派であった松平慶永島津斉彬を開国派に取り入れて、攘夷派のシンボルでもある水戸斉昭までも自分の陣営に引き入れるという離れ業を実現させます。
更には、幕政や人事に影響力を持つ大奥までをも理解者としました。

こうした方策は、国内の諸勢力をまとめ、開国政策を推進させるもので、阿部個人のパーソナリティが可能としたものでした。
阿部自身が健康を害し、死んでしまった後は、微妙に保たれていたバランスが一気に崩れ、朝廷や外様大名、下級武士に至るまで幕政に異論を唱える下地を与えてしまったのです。

阿部は瓢箪鯰(ひょうたんなまず・・・のらりくらりで捕らえどころがない)と評され、強い指導力のもとに明確な政策を示すことをしませんでした。そして上で述べたように幕末の動乱のきっかけを作ってしまったために厳しい評価をする人も多いようです。

この場合、一つ見逃してはいけないのは、阿部が天保の改革を半ばに失脚した水野忠邦の後任であり、老中に強い信認を与える将軍の後ろ盾が期待できなかったということです。 老中の権力の源泉は、何といっても将軍の強い信認なのです。
その点、12代家慶は、波風を立てることを嫌い、水野忠邦を最後まで支えることはしませんでした。 そのような状況下で阿部正弘は、微妙なパワーバランスの上で政策を勧めることしかできなかったのではないでしょうか。

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大奥側室の存在〜お志賀の方
2008/05/24 17:21 [Sat]
category:大奥の話
NHK大河「篤姫」では、篤姫のライバルとして側室お志賀の方(鶴田真由)が登場しています。

お志賀は実在の人物です。
しかし、お志賀については、詳しいことがわかっておらず、これまでは余り描かれることの少ない人物でした。

伝わるところによると、旗本・堀美濃守の娘でお目見え以下の御三の間からお目見え以上の中臈(ちゅうろう)になったといいます。
御三の間というのは旗本の娘が最初に就く役職であり、将軍のお手が付けば中臈に上がりますから、特別なことではないのですが、将軍・家定の側室はお志賀しかいないことを考えると何か特別な事情があったのかもしれません。(おちかの方という側室もいたとする説もあり)

ただ歴代将軍と比較すると側室が一人というのは、非常に特異なことでした。
徳川の血筋を残すことが家定に課された大きな使命だったはずですが、よく言われるように家定に子作り能力がなかったのかもしれません。

また、私見ですが、家定自身、
「余は名ばかりの将軍じゃ、次期将軍のことまで家臣どもがとやかく言っておる。自分の子に将軍職を譲っても余のような不幸者を作るだけじゃ。
徳川の血筋など他にいくらもあるではないか。」

という心境だったのかもしれません。

ところで側室という存在は、第二夫人というイメージが強く、御台所に準ずる特別な待遇があったと思われがちです。
確かに江戸時代前期には、将軍の特別な寵愛を受ければ、自分の待遇だけではなく一族が大出世することも可能でしたが、六代将軍・家宣時代に大奥の構造も変化し、側室といえども女中の一人であるということが徹底されるようになります。

江戸時代後期になると、御台所や将軍生母などは御殿向に独立の部屋があるのに対して、側室というだけでは長局で他の女中一緒に生活しなければなりませんでした。
妊娠して、はじめて御殿向きに専用の部屋をあてがわれたのです。
ちなみに将軍お手付きとなると内証の方と呼ばれ、女子を生むと御腹さま、男子であればお部屋さまと呼ばれました。

お志賀もあくまでも中臈の一人ですが、家定は心を許していたのか、大奥に足繁く通ったといいます。 また、お志賀は美人ではないが、綺麗に見えたという大奥女中の話が残っています。
家定が35歳で世を去った時、お志賀は40代であったといわれ、かなり年上だったということを考えればお志賀の家定に対する思いは、母性愛に近いものだったのかもしれません。


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御台所の一日2
2008/05/18 22:40 [Sun]
category:大奥の話
全く意図していなかったのですが、先週のNHK大河「篤姫」でも御台所の日課みたいなことを解説していましたね。
さて、前回に引き続き御台所の一日の午後編です。 ⇒⇒ 御台所の一日1(午前編)

九ツ時(12時)、昼食をとり終わると入浴です。
お湯は、湯船の水を沸かすのではなく、別の場所で沸かして適温になったお湯を運ぶので非常に手間がかかりました。
以前は、朝に入浴をしていましたが、あまりに慌しいので昼にしたといいます。
御台所は腰掛けていれば、掛の御中臈が白木綿の糠袋で御台所の体を洗ってくれました。1回の入浴で糠袋を7、8つ使いました。

八ツ時(14時)御小座敷で大奥の主だった者たちと集まり、お茶とともに羊羹や饅頭などを楽しみます。
日によっては、将軍も大奥に入って御台所とくつろぎの時間を過ごしました。
「おやつ」という言葉は、八ツ時から生まれたのですが、実は3時ではなく、2時くらいだったのです。

七ツ時(16時)、夕食の時間です。
現代感覚からすると、少し早いようですが8時に朝食、12時に昼食、16時に夕食で等間隔なのです。
ちなみに日本人が三食となるのは江戸時代中期からで、それ以前は朝と夕の二食でした。

それはともかく、夕食は現代と同じように三食の中で一番豪華で器も朝、昼は木製でしたが夕食だけは陶器を使いました。
夕食の後は、朝から4回目の衣装替えで、これを夕御召し、別名「御楽召」といい多少、楽な衣装を身に着けます。

その後、就寝までは近侍の者を相手に世話話をしたり、読書や習い事の時間を持ちました。
五ツ半(21時)には就寝。
寝る前の着替えを御寝御召しといいます。

なんと一日5回の衣装替えが行われるのですが、御台所は常に衣装を汚さないように気を使ったといいます。
というのも、御台所の衣装は、御納戸払いと称して足袋、腰巻に至るまで洗濯することなしに大奥の女中に払い下げられるからです。

以上が御台所の一日ですが、時代や人により多少の違いがあることをお断りしておきます。

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